チェンマイ大学生事情

プーディン村での活動で通訳とか翻訳を手伝ってくれているのはチェンマイ ラチャパット大学日本語学科の学生たちで今年で4代目、1-2代目はすでに卒業し日本語を生かしてタイ各地、海外で活躍中・・・

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今年の3年生のグループ(男子2人、女4人、オカマ一人)の仲良し7人、彼等が日本語を勉強しようとしたきっかけはたいていは日本のコミック、アニメ、ゲーム、ミュージック。女子学生のお気に入りは一応にジャニーズ、オイちゃんはNEWS,ノックちゃんは山P、オムちゃんはKAT-TUNクンちゃんは関ジャニ∞
アジア暮らしのおじさんには何のことかさっぱり意味不明・・・・

先日も我が家に集合して日本からチェンマイ2ヶ月滞在のリタイア生活の大西夫妻もいっしょに夫人の手創りのカレーパーティを開催、夫妻に日本で購入を依頼したジャニーズグッズに女子大生は大喜び、日本のカレーライスを<アロエ、アロエ(おいしい、おいいしい)>連発で食べた後は、これもお土産のことわざカルタ大会、さすが日本語学科の優秀な学生ひらがなは全く問題なし、しかし、ことわざの意味は難解(こちらも説明に絶句することしばしば・・)これもきゃっきゃきゃっきゃ大騒ぎのうちに3回戦終了、


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その後は一昨年、篠崎多由美女史がわざわざハンドキャリーしていただいた、
ジャパネットタカタ謹製のカラオケセットでカラオケ大会,残念ながら内蔵の局は昭和の懐メロ主流のオールドソングばかりで学生たちが歌いたかったジャニーズJR曲は皆無、それでもアニメソングは皆大好き、オイちゃん、ノックちゃんは小躍りしながら<踊るポンポコリン>を歌い、おかまのオーちゃんは体もくねらせばがら妙に色っぽく<セーラムーン>を絶唱
チェンマイの楽しい宴は笑いと歓声の中いつまでも続きました・・・(ご近所の皆さん、お騒がせしました・・)


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それにしてもチェンマイの大学生はまるで中学生みたいにシャイで真面目、何度もいっしょに会食していますが話題も子供っぽいし酒を飲む学生は皆無、水かコーラを飲んで大騒ぎしています。(もちろん喫煙者はゼロ)

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ところが日本留学からタイへ帰国した学生は一応に髪の毛は染め、お酒を飲むようになって変にこましゃくれた日本語をしゃべりケバくなってしまっています。
彼等はそのスタイルで周囲に自分を日本ナイズしたように誇示したいようですが・・・

18歳まで港町神戸で純粋無垢(?)に育った僕が大都会花の東京に出て行って都会色に染められていった40年前の自分を見る思いがしています。

しかし、今ではどっぷりアジア色に染まりきってしまいましたが・・・

投稿者: otaku 日時: 16:58 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)

プーディン小学校の春

5年前から交流を続けているプーディン小学校へ定期奨学金(HIVで親を亡くした生徒への奨学金)を届けに日本からの友人たちと行ってきました。

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今回は東大サッカー部のヒデ ナカタ(?)こと倉林啓士郎コーチのサッカー教室も開催し、休日にもかかわらずいつものように男子生徒のみならず、女生徒、父兄も大勢、校庭で待っていてくれました。
奨学金と文房具の授与と卒業する6年生二人への記念品贈呈のあと、いよいよサッカー教室が始まり、倉林コーチの指導のもと、以前所沢少年サッカークラブの辻 稿一氏寄贈のコーンを使ってのドリブル、パス、シュートの練習、生徒は誰も日本のようにユニフォームもスパイクも持っていません(半数はぞうりか裸足)が、ムエタイ仕込みの鋭いシュートを連発していました。

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その後、2組に分かれてのミニゲーム開始、ユニフォームがないので裸チームとTシャツチーム(判りやすくていい)、皆フォーメーションも何も関係なく、石ころだらけのグラウンドで全員で一心にボールを追ってゲームセット 2-1で裸チームの勝利

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昼食は休日で給食がないのでチェンマイから買ってきたカップヌードルに女生徒たちが沸したお湯を入れてくれ、

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生徒代表の6年生モンメンちゃんから<今日も日本からプーディン小学校へ来ていただいて有難うございました>との挨拶のあと

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全員でわいわいがやがやいいながらの昼食を終え、日本語で<アリガトウ><サヨナラ>と言って手を振る生徒たちに送られて小学校を後にしました。

この日もいつものように心に残る訪問となりました。

   

投稿者: otaku 日時: 07:40 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)

暁の家

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チェンマイから北へ90km、ブーゲンビリア咲く国道118号線を突っ走り、 山間を縫うように車で2時間、ウィンパパオの町の脇道沿いに、中野穂積さんが 運営されている少数山岳民族の教育支援の寮<バンルンアルン 暁の家> を友人たち(長谷川泰正桂隆俊、 倉林啓士郎,敬称略) と訪問して、中野さんの活動についてお話しをうかがいしました。
   
少々長く、複雑になりますがことのきっかけは、1月の帰国時、友人安井陽一さんの紹介でお会いした彼の義理の叔父さんであり、りゅう木庵店主の野田喜男さん(82)のグループの方々との大阪NPOセンターでの会合に始まります。
野田さんは大阪営林局OBを中心としたメンバーの方たちと2001年から<暁グリーンクラブ>を結成され、その後 <NPOみどり大阪>とNPOシニア自然大学と共同で毎年タイ北部の山岳地帯を訪問し、現地の小学校、村での地球環境の指導、文化交流などをしながら生徒、村民といっしょにすでに数千本の植林活動をされています。
その活動の現地でのベースとなりコーディネイトされているのが中野穂積さんの暁の家です。
今年6月のグループの訪問を前にチェンマイに半居住の僕に時間があれば一度中野さんを訪ねて面談してはとのお勧めに 、すばらしい方のお目にかかれるのならばどこへでもと大喜びでの今回の暁の家への訪問でした、

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中野穂積(なかの ほずみ)さん
三重県紀伊長島町出身、1979年青山学院文学部卒
東京でのOL生活のかたわらタイ留学生との出会いからタイ北部の山岳民族に興味を持ち
1984年3月初めてタイ訪問し、山岳民族の村を訪ね心にビビっと感じるものがある。

タイ北部の亜熱帯林に住身、自給自足の生活をしていた山岳民族は経済的にも教育面でも恵まれていませんでした。
特に村では中学がなく進学するには親元を離れ寄宿生活をせねばならず、また文化、慣習、言語の違った 環境で生活するには経済的にも精神的にも生徒たちには多くの負担がかかっているの実情がありました。
  何とか中学校に近いところに寄宿舎を建て、少数民族の子供たちに高等教育の機会をあたえたいとの中野さんの願いが芽生えました。

85年7月 退社しタイでのロングステイ開始、
87年5月9日 中学校に近いティンドーイ村に生徒のリス族の父兄たちとかやぶきのリス族寄宿舎を建てる。
94年   寮生、卒業生、その他山岳民族の生徒、学生を対象としたルアンアルン奨学金制度を発足する
95年~ 現在のウィンパパオに3000坪の土地を確保し中野さんの設計でコンクリートとレンガで瀟洒な寮、図書館、作業場、食堂、事務所、ゲストハウスを村の大工さんたちと建て(その何棟は野田さんのような日本の篤志家からの寄付によるものです) その周囲に運動場、畑、家畜小屋を設営する。

今も40名の山岳民族の生徒たちは寮から近くの中学、高校へ通学するかたわら、寮では炊事、掃除、農作業、家畜の世話などを 1週間単位で担当を交代しながら班を編成して担当しています。
20年の間に大学に進学した卒業生も多く、今ではタイの国内のみならず広く世界で活躍中とのこと、今年も高校3年生7名も すべて大学進学を希望しているとのことです。


暁の家をご案内いたきながら、淡々と説明される中野さんはお一人でタイの奥地で人生を捧げ、20年間、プロジェクトを立ち上げ 運営されているという変な気負いはなく、反対に静かな自然体の話し方の中に地上の星のオーラーを感じました。

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別れ際、「中野さんが今一番必要なものは?」とお聞きしたところ
「この地に来て、じっくりと生徒たちを教えてくれる人材」とのこと
「一番のご心配は?」
「故郷 三重に残した老いた母です」
僕も遂には両親の死に目には会えず仕舞い、これは同じ海外在住者のどうしようもない宿命でしょうが・・お気持ち痛いほど判ります。

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寮の裏で見事に開花していた10年前に苗木から植樹し、南国の暑さにも耐え残った1本の山桜に 中野穂積さんの日本タイ友好に捧げられている人生の結晶を見た思いで、いつまでも手を振ってくださっていた中野さんと きょとんと我々を見続けていた猫のお見送りを受けて日本人の誇り抱いて暁の家を後にしました。

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しかしタイ(シャム)にはどうしてシャム猫はいないのでしょうか? ねぇ そこの猫ちゃんよ 教えてョ・・?
   

投稿者: otaku 日時: 18:43 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)

バレンタインデー事情

バレンタインデーに女性から男性にチョコレートをプレゼントするのは日本だけの習慣です。
(もしかして日本のチョコレート会社の陰謀??)
海外、少なくともアジアではこの日は愛を告白する日で、男性から女性へのプレゼントが圧倒的、タイでも香港でも一番売れるのはバラの花です。昨日も夕方になると花束を恥ずかしそうにかかえた男の子たちがそこかしこに行きかっていました。
また、タイのラブホテルはこの日は満室となり、タイ政府はこの日、未成年のホテルの使用禁止令を出していたとか・・・

バンコクでのわが常宿の通りは、なだたる歓楽街ナナプラザがあり、路上では昼間から客から店の女の子へのプレゼント用の商品を満載にした屋台が並んでいました。

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一昨夜、バンコクで夕食をごいっしょした在米実業家牧野さん、タイの高原の村PHURUAで7年前から村人たちといっしょにご自分の夢としてMY ゴルフコースをこつこつ、ひたむきに造っていらっしゃり、わざわざロスのSee’s本店から買って来ていただいたマシュマロチョコをいただきました。

いつもチェンマイの小学校の交流の際、いっしょに手伝ってくれているラチャパット大学の学生たちからも思いもかけずのチョコレートのプレゼント、添えられたカードに日本語で<いつもお世話になっています。これからもよろしくお願いします

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日本の家人からのバレンタインメールとともに忘れえぬバレンタインプレゼントになりました。

今日も、ひたすらただただ感謝、感謝です。

投稿者: otaku 日時: 17:49 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)

バリ島讃歌

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サーファーでもダイバーでもなく、当地に女が居るわけでもなく、はたまたさしたるビジネスもしてるわけでもないのでアホちゃうかといわれそうですが、アシスタントのセリナが言うには17年間で今回が45回目のバリ島訪問となるとのこと。(セリナ自身、転職が当たり前の香港人ではアホちゃうかといわれそうな入社18年目にもなっていますが・・)

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僕がこれほどまで、バリ島通いをする理由は勿論この島のもつすべてを癒してくれるような氣の溢れる神秘的な魅力もさることながらこの間ずっと僕のみならずいっしょに訪れた友人にも家族同様の受け入れをしてくれ、いつもフルアテンドしてくれるマリック、ユニタ 一家がこのバリ島にいてくれたからこそです。

華僑3世のこの夫妻、僕の知り合った17年前は自営の縫製工場で生産した衣料品を目抜き通りレギャンの店で観光客相手に販売していました。

いつも品質の向上にこだわる職人気質のマリック、会社の財務、総務人事をとりしきる、しっかりもののユニタ。華僑独特の絶えずひたむきに努力を重ねる働き者の夫婦です。

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この17年間、この二人が経営する<TOMTON>社は衣料品、手工芸品の生産、輸出、小売り(バリ島内11店舗)と年々業容を拡大し、6年前には4000坪の敷地にバリ家具の工場、ショールームも立ち上げ、短期間で今ではバリを代表する家具工場にまで成長させ、また5年前にウブドに開店したレストラン LAMAKも前大統領メガワティがおしのびで訪問するほどの店になり、2年前に開店した2号店の<WARUNG ENAK>とともにウブドでは評判の繁盛店になっています。

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初めて会ったときまだユニタのお腹の中にいた長男カルビンは今では16歳、14歳の次男カルロ、12歳の三男クリフ3人ともにジャニーズJR系の美少年、僕がバリ島滞在中は超多忙な両親ともども必ずいっしょに会食し、好きな日本コミック、ヨーロッパサッカーや将来の夢を僕より流暢な英語で頼もしく語るバイリンガルになっています。

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マリック、ユニタ+息子たちとはこの間香港、シンガポール、タイ他、インド、オーストラリアへもいっしょに家族のように何度も旅行したり彼等のレストラン、家具ビジネスの市場調査目的もあり、いっしょにバリ島内の有名レストラン、ホテル、ショップを巡り歩きました。その内装、食器、料理、サービス、商品のコメントやビジネスビジョンまで研究熱心な彼等と意見を交わす度に僕も大いに触発されるものがありました。

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今回も彼等の案内で訪れたスーパーブランド<ブルガリ>の経営する昨年9月オープンの超高級6★ブルガリホテル、(51棟だけのビラ)

インド洋を見渡せる絶景のロケーションにあり、トロピカルカクテルを飲みながら、その突端のオープンカフェからソフトソファーに横になって見る

珊瑚礁の彼方遠く水平線のむこうに沈む夕陽は感動ものでした。

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カフェのボーイが言うには<日本人の新婚旅行のお客さんたくさん泊まっています>とのことでしたが、帰りにレセプションでもらった料金リストも見てひっくり返りそうになりました。

1泊$1250 (15万円)+20%税サ から・・・ (どんな新婚夫婦が泊まるの??)・・・まだまだ勉強不足でした・・・・

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投稿者: otaku 日時: 09:13 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)

混迷のバンコク

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1ヶ月ぶりに舞い戻った、開港4ヶ月経過したバンコクスワナプーン新空港には人目を避けるようにうごめく作業員がそこかしこに、見上げればガラス天井の上にも数人の作業員が・・・

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バンコクポストによれば、この新空港そもそもコブラの沼といわれた沼沢地に規格外の土砂を使ったために、早くも地盤沈下が始まり、滑走路、誘導路に亀裂が生じ、51基の搭乗ブリッジのうち11基が使用不可、旅客ターミナルの外面に多用されているガラスにもかなりのひびが入ってきているとか・・・

もし地盤の埋め立てに使用した規格外の土砂が沈下の原因であれば、その場しのぎの補修では間に合わず地盤そのものからの気が遠くなるよな大がかりな改修工事が必要となり時間的にも経費的にも問題はかなり深刻になってしまいます・・
それを察したのか政府は急遽、旧ドムアン空港を国際線として併用復活開港すること6日政府決定してしまい、事態はますます混乱していくことは必須となっています。(ドムアンの再利用の準備にも45日はかかるとか・・)

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チャオプラヤ川辺のカフェでシンハービールでものんびり飲みながら、川を渡ってくる熱帯の肌にまとわりつくような高温多湿の大気を吸って、日本から引きずってきた風邪を一機に吹き飛ばそうと、河畔のホテルに宿泊したのですが今年のバンコクは50年ぶりの(50年前の記録を取っていたとは思えないので、おそらく史上初)涼気襲来とかでプールにも入れず冷えたビールを飲むと肌寒くなり、かえって風邪をこじらせ、はなや咳まで出て来てなんとも情けない状況になってしまいました。

投稿者: otaku 日時: 06:07 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)

香港利休物語

今回の3日間だけの香港滞在期間中、どうしても行っておかなければいけない店があり、会っておかなければならない人がいました。
日本料理店「利休」、香港の駐在員でこの店を知らなければモグリとまで言わさしめた名物日本料理店オーナーの島田さんは御歳72歳の関学OBとしても香港駐在日本人としても最長老のお一人。

その「利休」が2月17日旧正月までで17年間の歴史の幕を引き、島田さんご夫妻は故郷兵庫県に帰国されると昨年末お聞きしていたので、明日から3週間の南の国へ旅発つ僕としては最後の伝説の店「利休」での食事をと、今日昼食を兼ねてご挨拶にうかがいました。(香港駐在20年の僕も開店以来お世話になった店)

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「利休」の開店は1990年、それまで香港駐在の経験のない島田さんは日本でのサラリーマン生活を早期退職され、55歳で単身香港へ渡来、駐在している土地勘のある人間ならばまず出店しない日本人の立ち寄らない天后の倉庫街に日本料理「利休」を開店、案の定開店数ヶ月は閑古鳥が飛び回り、見るに見かねた奥様が日本からかけつけメニューからサービスすべてをを洗いなおしてのマイナスからの再スタート、そして苦節1年、ご夫妻が昼夕いつも、自ら店内に立っての家庭的なサービス、奥さん指導の繊細なおふくろの味付けが話題を呼び、そのうわさは口コミで拡がり、金融マン,商社マンは3駅向こうのセントラルから、航空会社の日本人キャビンアテンダントたちは海峡を渡った九龍から車を飛ばしてまで駆けつけ、数年後には予約なしでは席につけない超繁盛店になり、利休の近所には次々と日本レストランが開店し日本食街になっていきました。

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いつも満席の店内で駐在員たちは異国での懐かしい日本の料理をほおばり、酒をあおり、あるときは香港ドリームを熱く語り、あるときは大陸での挫折に涙し、多くの友人同僚の歓迎会、そして送別会もこの店で行ってきました。

この17年間、香港はめまぐるしく揺れ動きました。中国返還、通貨危機、鳥インフルエンザ、そしてサーズ騒動、サーズ騒動の期間、家族を日本へ一時帰国させた単身駐在員で利休は連日超満員となり、利休のおふくろの味は単身駐在員の胃袋を支え続けました。

今回市街地の再開発のためのビルの立ち退きとなり「利休」は香港駐在の日本人のみならず、多くの香港人、欧米人に惜しまれ、客一人一人の思い出のシーンを残して閉店していくことになります。

今日も島田さんはフロアで奥様は厨房で忙しくされていました。

僕の最後のオーダーのメニューは迷わず「利休」名物,世界一美味ともいわれているカレーうどん、その昔若かりし頃は大盛りのカレーうどんを食べた後、残ったスープに大盛りのライスを注文してカレーライスとして<一品で2度美味しいと言いながら>食べていましたが・・・(あのときは若かったなぁ・・)

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レジ近くに座り、島田さんと昔話をしながら感慨深く、ゆっくりと味わいながらく最後のカレーうどんを汁まで完食し、島田さんと記念撮影、またいつの日かいずこの国かでの再会を約束して、お互い目頭を熱くして硬い握手で店を後にしました。
時は流れ、人は去り、またひとつ香港の日本人社会の歴史と記憶に残る店の灯がまもなく消えて行きます。

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投稿者: otaku 日時: 09:57 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)

五色塾 至福の晩餐

不登校や引きこもりの子供たちを自宅に合宿させ、自分の子供たちと不耕農業や大工作業をしながら共同生活している五色塾の主宰者 小川さんから日本出張期間中、時間があれば塾へ来て子供たちにアジアの話をしてもらえないかとの熱いリクエストにお応えして、日本滞在最後の夜、相模原の五色塾におうかがいして車座になって子供たちや、ボランティアの人たちとのアジアの生活やプーディン村紹介の懇談会に妻と二人で参加させていただきました。

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子供たちは目をきらきら輝かせながら、まだ見ぬアジアの話しに聞き入って、子供ならではの発想の思いもよらぬ質問も飛び出してこちらもあたふたしてしまうような新鮮な驚きがありました。

懇談会の後、その日スイスからの里帰りから帰国したばかりのいブリギッタ小川夫人の心のこもった手料理を10数人が一斉においしくお頂き、山盛りの料理も食べ盛りの子供たちの前では気持ちがいいほどまたたくまになくなってしましました。どの国でも大勢でわいわい談笑しながらの食事はやはり最高の至福の時ですね

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食事の後、小川さんのお嬢様たちのピアノでベートーベンの演奏、ブリギッタ夫人がスイスから持参のライアを塾生のふゆみちゃんが<千と千尋のテーマ曲>を演奏し、どんな豪華なコンサートホールの演奏よりも心の琴線に響く日本での最後の晩餐を経験させていただき、子供たちとも次回はチェンマイでの再会を約して五色塾を後にしました。


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今の日本の偏差値教育で落ちこぼしている大事なものをひとつひとつ拾い集めて大切している五色塾での奥深い感動を胸に家路を急ぎました。

 
小川さんから帰り際に手土産にといただいた子供たちと作った自家製のカリフラワーを早速翌日いただいたところ、今まで味わったことない大地の甘さあふれる美味しさでした。

投稿者: otaku 日時: 09:29 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)

主宰者プロフィール

ガチャマンダオーナー

大宅 一裕
(おおたく かずひろ)

1949年
京都生れ(街頭テレビの力道山の空手チョップに街は熱狂していた)

1968年
神戸六甲学院高校卒業 (裸で便所掃除のスパルタ教育)

1969年
上智大学外国語学部入学(キャンパスにはシュプレヒコールが響き、街には藤圭子の歌が流れていた)

1973年
大手百貨店入社(婦人服部に配属も連日返品作業、催事場での呼び込みの毎日)

1982年
百貨店の海外開店のためファッション担当としてシンガポール出向駐在(?1986年)
(仕入れのため世界各国へ出張し、海外とりわけアジアの魅力にズッポリとはまる)

1987年
百貨店退職後、香港にてGardex Internatinal 設立
香港を基点にヨーロッパ、アジアでのファッションビジネスに携わる

2000年
タイ、チェンマイにて会社設立、旅行業、ファッション、雑貨、食品貿易業のかたわらチェンマイ郊外のプーディン小学校との交流、支援を継続中

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