
RIKAさんの奥様ソウル留学体験レポートNO3転載させていただきます。
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ソウルより 2007年4月3日
ソウルは一昨日天気予報通り黄砂が舞った。
この時期日本では花粉予防のマスクをする人が目立つが、ここソウルでは
花粉症はあまり騒がれていないようだ。こちらの人に聞くところによると、
韓国人は発酵する食物をよく摂取しているので免疫力が高く、花粉なんてへっちゃらとか?これもキムチパワー?
そんなソウルっ子も黄砂にはやはりマスク。
地下鉄の中でおじさんが売り歩く姿も見られた。
↓黄砂で霞む江南(カンナム)地区の狎鷗亭(アップジョン)付近
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今日はこのあたりの桜も八部咲きだと言うのに、朝の気温は2度、
学校の授業が終わって外に出たら冷たい風邪が吹き、そのうちにみぞれが降り出した。ソウルの春はもう少しお預けらしい。
3月29日、以前から訪れてみたかった非武装地帯へのツアーに参加した。
たまたまこの日は学校の予定もなく、私にとっては都合が良かったのだが、
参加した人に聞いたらこの日をはさんで前後とも満席で予約が入れられなかったとか。
日本人の観光客には人気のコース、私も負けずにミーハーか?
最初に案内されたソウルからバスで40分ほどの
오두산통일전망대(オードゥサン統一展望台)は南を流れる漢江(ハンガン)と
北を流れる臨津河(イムジン河)が合流する地点に有り、晴れた日には北朝鮮を見ることができる。この日は生憎お天気が悪く霞んで見る事が出来なかった。
ここでは脱北者が生々しい体験談を交えながら北朝鮮の生活を紹介してくれた。現在、韓国に亡命した脱北者は1万人、そして北から脱出を果たし、その他の近隣国で韓国への亡命のチャンスを待っている人は35万人いる。彼女も中国にいる知り合いを頼り、ブローカーに100万ウォン(日本円で13万円程度)を払い、命懸けで中国へ。その後中国で3年半もの間、苦しい生活に耐えながら亡命のチャンスを待った。北では1ヶ月の収入が2000~3000ウォンでお米を
3キロも買ったらなくなる程度のもの。中国人の知り合いの手助けで100万ウォン払うことが出来た彼女はかなり恵まれた例かもしれない。
ピョンヤンは外国人に見せるために作られた都市で、そこに住める人は一握りの特権階級。ピョンヤン市民には特別な証明書が発行されるが、そんな特別扱いの人々も障害を持った子供が生まれればすぐに地方に追放されると聞いた。
徹底して都合の悪いものには蓋をする北の体質そのもの。
この展望台の建物内には北の小学校の教室、民家の内部などが再現されており、中央に飾られている金日成、金正日の写真が印象的だった。彼女の説明がすべて終わった後、参加者から様々な質問が寄せられた。
「ご苦労されましたが、今は幸せですか?」
『はい、同じ脱北者の男性と韓国で知り合い、結婚、子供にも恵まれ、 今は幸せです。北に残してきた家族が気掛かりですが。』
「北からの圧力で身の危険を感じることはありませんか?」
『脱北者が1万人を超えた今はあまりそれは感じませんが、このように人前で脱北者だと語ることは勇気がいることです。』
「南の太陽政策はどのように思われますか?」
『韓国に亡命した当時は素晴らしい政策だと思っていましたが、 結局、援助は一般市民には行き渡らず、金正日の力を助成することにしかならないことに気が付き、今では反対しています。』
不幸な南北分断の現実を見せ付けられ、なんとも暗い気持ちで次の目的地・板門店へ。板門店(共同警備区域JSA)はソウルから西北に62km、北朝鮮の平壌から南に215km、開城市からは10kmの地点にあり、非武装地帯の中で韓国人が行くことが出来る最北端の場所である。
第二次世界大戦後の東西対立を象徴する1950年6月に始まった朝鮮戦争
(韓国では韓国戦争と呼ばれる)は当初は北朝鮮軍と韓国軍によるものであったが、のちに米軍をはじめとする国連軍や中国軍まで参戦、1953年7月27日に停戦協定が成立したが、その結果朝鮮半島(韓国では韓半島)の南北分裂が決定となった。
休戦協定の締結と共に作られた非武装地帯は韓国と北朝鮮の軍事境界線(西方の漢江入り口の橋洞島から開城、南方の板門店を通って中部の鉄原、金和を過ぎて江原道高城郡の名呼里にいたる248kmが朝鮮半島を横切っている)に沿って南と北それぞれ幅2km、計4kmを武装無しにあらゆる軍事行為及び敵対行為を一切中止する緩衝地帯である。
まずバスが非武装地帯に入ると国連軍司司令部最前方基地であるキャンプボニパスで国連軍によって用意された軍司専用バスに乗り換え、見学者は全員ブリーフィングを受け、その際には軍事境界線を越えて北朝鮮軍の管理する総合警備地域へは立ち入らない、万が一敵の行動によって危害を受け、また死亡するなどの有事があっても責任を追及しないなどの宣言書にサインを要求される。この場所に入る為には穴の開いたジーンズは禁止(北朝鮮の軍人はジーンズを米国を象徴する服装として見ることから、不用意に彼らを挑発しないため)、その他、事件が起きたときに国連軍の支持に従って敏速に行動することを妨げるミニスカートやサンダルなどの着用が禁止されている。
ブリーフィング後、いよいよバスは非武装地帯内の南側にある
大成洞「自由の村」(戦争以前から住み続けている原住民の村で現在約230名が農業を営みながら、韓国政府より兵役免除、税金免除などの特別待遇を受け豊かに生活している。)を左手に見ながら板門店へ
この共同警備区域(JSA)は前後左右の距離がわずか800mにすぎない狭い空間で、南北双方の行政管轄権の圏外にある特殊な地域である。
ブルーの建物が軍司停戦委員会の会談場
↓境界線沿いにある北朝鮮の見張り小屋(左手に北朝鮮兵士が立っている)
軍司停戦委員会の会談場は南北の境界線上に建てられ、建物内部においては境界線をまたがり実際には北朝鮮側に立つことが出来る。
この軍事停戦委員会の会談場の前を通過し、小高い丘に登ると
休戦協定後、戦争の捕虜交換が行われた「帰らざる橋」(捕虜達が一度どちらの方向に行くかを決めたなら、二度と帰ることが出来なくなることから名づけられた)、そして1,8km先の北朝鮮の気静洞「宣伝村」(キジョンドン村)を一望することができる。
この橋をまたがり、南北の兵士の友情と悲劇を描いた悲しい物語の韓国映画「JSA」を思い出さずにはいられない。
この気静洞は以前は偵察兵士以外の民間人は誰も住んでいなかったが、ここ何年かは実際に住民がいるとのこと。暖房用に木を燃やすためか、北朝鮮側には重要な軍事施設の周りを除きまったく樹木がない。初めて目にする北朝鮮の地は寒々しく荒涼としていた。あの中でどんなに不条理なことが繰り返されているのだろうか?たった1,8kmのこの差は何なのだろう?
非武装地帯内の見学にはすべてバスに国連軍兵士が同乗し、バスの前には武装した兵士が乗るジープが護衛のために先導する。この板門店を訪れる韓国人は特別な申請をし、3ヶ月後に許可が下りた者のみで、しかも子供を置いて北に亡命できないように夫婦での参加は認められていないとのこと。
このようなことを聞くにつけ、常に緊張状態が続いていることを実感させられる。同じ民族でありながら、同じ家族でありながら南北に分かれて生きる悲劇。
脱北者の話から推測する北朝鮮の悲惨な実態、益々広がる南北の格差。
彼らが抱えるこれらの痛み。韓国人を理解する上でやはりこの事実から
目を逸らせてはならないと自分に言い聞かせながら板門店を後にした。
余談だが、非武装地帯に勤務を命ぜられる韓国兵は身長175センチ以上のエリート中のエリートとか?どおりで私が乗ったバスに同乗した兵士もすぐにでも映画俳優になれそうな凛々しいお方だった。ソウルの地下鉄内ではなかなかお目にかかれない。
さて、板門店ツアーの翌日はいよいよ延世大学韓国語学堂のクラス分け発表と
オリエンテーション。1級から上級は6級まで、1クラス約12名ごとに名前が書かれた紙。ありました。2級でした。
初級と中級の中間といった位置づけ。まあ、自分なりに妥当かな?と納得。
(後日、実際に授業がスタートしてみて、なかなか身の丈にあったよいクラスと感謝・感謝)
オリエンテーションはまず全員が一同に集まり教授陣の紹介の後、英語・日本語・中国語に分かれて細かい説明を受けた。
延世大学の韓国語学堂の歴史、学生の実際の生活などを口頭とビデオで紹介された。若者の中に混じって受けるこれから始まる10週間の授業に胸を躍らせる私であった。
さてさて、実際の授業の様子は次回に!!
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大宅 一裕
(おおたく かずひろ)
1949年
京都生れ(街頭テレビの力道山の空手チョップに街は熱狂していた)
1968年
神戸六甲学院高校卒業 (裸で便所掃除のスパルタ教育)
1969年
上智大学外国語学部入学(キャンパスにはシュプレヒコールが響き、街には藤圭子の歌が流れていた)
1973年
大手百貨店入社(婦人服部に配属も連日返品作業、催事場での呼び込みの毎日)
1982年
百貨店の海外開店のためファッション担当としてシンガポール出向駐在(~1986年)
(仕入れのため世界各国へ出張し、海外とりわけアジアの魅力にズッポリとはまる)
1987年
百貨店退職後、香港にてGardex Internatinal 設立
香港を基点にヨーロッパ、アジアでのファッションビジネスに携わる
2000年
タイ、チェンマイにて会社設立、旅行業、ファッション、雑貨、食品貿易業のかたわらチェンマイ郊外のプーディン小学校との交流、支援を継続中