少々長くなりますが・・・
1549年フランシスコ ザビエルによって伝えられたキリスト教は織田信長、諸大名の加護の下、50年たらずの間に急速に信者数を増やし、1590年にはすでに信者数は30~40万人にも達し、人口5万人の長崎ではそのうち4万人も洗礼を受けていたともいわれています。豊臣秀吉も1587年キリスト教布教禁止令を出しながらもその宣教活動を容認していましたが、1596年になりその勢いに危機感を感じたのか一転し、キリシタン禁止令をさらに厳しくし、その見せしめとして京都の宣教師、信者24人を(日本人のみならず、スペイン人、ポルトガル人)捕らえ収監し、左耳をそぎ落とし、京都、大坂、堺の町を引きずりまわし。処刑は信者数の多い長崎でと決め、陸路2000kmを首、両手を縛り、家畜のような扱いで山陽道、唐津を経て、2月4日長崎大村湾を小船に乗せ時津港に着いたのは深夜、一晩寒風吹きすさぶ港で野ざらしにし、極度の飢え、寒さ、疲れのうちに月5日朝の6時に時津港を出て5時間後の11時に長崎西坂の丘に到着後、準備されていた十字架に附けられ、槍で刺して惨殺していましました。
この間、途中岡山で加わった2人を含め26人は残酷な扱い、役人たちの棄教の誘いにも屈せず、お互い励ましあい、祈りの聖歌を謳いながら全員、歓びにあふれて殉教の道を歩んだといわれています。そのなかにはまだ20歳にも満たない少年たちも含まれ沿道の人たちの涙をさそったとか・・・
今回、縁あって中学時代からの旧友、谷口兄(早期退職し、今は外国人居留地研究家)と先祖が隠れキリシタンの87歳のシスター相川、そして僕たち初老夫婦の4人が26人殉教者が最後に歩んだ道(長崎時津港から西坂まで)をその当時と同じルートを徒歩で辿ることから長崎巡礼の旅をスタートしました。
まずは時津港の26聖人殉教記念碑で記念撮影のあと、谷口兄が事前に調べ上げた400年前の26聖人が辿った同じ街道ルートに沿って歩き始めました。
歴史の街長崎のアップダウンの街道をよぼよぼ歩く老シスターは行き交う人からたびたび声をかけられ、シスターに献金まで渡すおばちゃんまで現れました。
4人は途中、数々の史跡を26聖人の足跡を想いながら5時間半かけて西坂の処刑地に到着。26聖人記念碑の前で万感の思い込めて祈りを捧げました。
(僕だったらおそらく耳をそがれると聞いただけで即時に失神してしまいそうなの状況の中、26聖人にそこまでの殉教を可能にした信仰のエネルギーの源泉に思いをはせながら・・)
その後日本でのキリスト教は徳川幕府鎖国政策の中、厳しく禁止され宣教師は国外追放、信者は踏み絵などの迫害を受け、多くの信者は棄教、離教する中
数千人の信者は役人の目を逃れ密かに260年間、静かに信仰を守り続け、幕末フランス人宣教師プチジャン神父によって長崎浦上天主建立後、天主堂に密かに忍び込んできた信者たちが堂内のマリア像を見て、自分たちと同じ神であることを告白し、キリシタン発見となりました。
それでも幕末、維新後の政府はキリシタン禁止政策を変えず、長崎奉行は異教徒のブラックリストを作成し、捕らえ国内各地に移送し説諭、拷問を繰り返し、棄教させようとし、ここでも多くの殉教者を出すことになります。
今回の旅行であらかじめ谷口氏が閲覧予約していた長崎歴史博物館でのを当時のブラックリスト台帳を閲覧したシスターは、、その中に祖先の名前を発見し、思わず涙ぐみ手を合わされていました。
その後5日間かけて我々は長崎市内から車を走らせ神の島、西彼杵郡、黒崎、出津、平戸、生月の教会、墓地、史跡を巡り、どんな田舎の村にも小さいながらも厳かに立つ教会を訪れ、ある時は命をかけて守り続けその生活に根ざした 普段着の素朴な信仰の姿に心打たれ、元音楽教師だったシスターのオルガンの伴奏で古い懐メロ聖歌を心を込めて各教会で歌いました。
また谷口兄の案内で険しい山道の奥深く、人目をしのぶように石を置くだけで墓碑を刻むこともできず密かに埋葬されているキリシタン墓地に立ち日本キリスト教の原点を心厳かに黙想させていただきました。
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今日は2000余年前、中東の寒村ベトレヘムの馬小屋で大工の子として人知れず生まれ、33年の短い生涯にもかかわらず、その後世界で最も多くの人々の心にメッセージ(福音)を送り続けることになる方のご生誕日、その教示はあるときは政争のあるときは権力の具とされながらも脈々と清新な息吹とともに現代世界にも生き続け、このご生誕日は信仰、政治、国境を超えて世界中のフェスティバルになってしまいました。
仏教国タイにも布教され、少数ながら真摯にキリスト教信仰を持っているタイの人たちとあの方の誕生を歓ぶミサに与るために
僕たちも今から深夜のチェンマイ聖心教会ミサに行ってきます。
世界の平和と皆様の幸せを心から祈りつつ Merry,Merry Christmas!!
バンコクから西に130km車で2時間、ミャンマー国境に近い町、カンチャナブリ。この街の最大の観光スポットは映画<戦場にかける橋>の舞台となっったあの橋。第2次大戦中、日本軍がこの地で連合軍の捕虜とタイ人を多数徴用して建設したタイ、ミャンマーを結ぶ泰緬鉄道のクウェイ川にかかる日本軍名<メクロン川永久橋>
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そして日本軍の奴隷のような残忍な扱いで犠牲になった連合軍捕虜を弔っている慰霊墓地。パールハーバー、南京戦争博物館同様、日本人としてはあまり居心地にいい場所ではないこの地に多くの西洋人たちがバンコクからのオプショナルツアーで観光バスを連ねて訪れています。
鉄橋に隣接したJEATH戦争博物館には当時泰緬鉄道でビルマ、インドまで戦時物資を運んだ日本軍の機関車とか残忍な扱いを受けて鉄橋建設のため過酷な労働を強いられている連合軍捕虜の蝋人形がかなりリアルに展示されています。
そして映画のクライマックスとなったあのシーン。インパール作戦に勝利した連合軍は日本軍の息の根を止めるべく本軍の輸送ルート泰緬鉄道の爆破を開始し、その重要目標としたのがクワイ川鉄橋爆破、事前にその情報を得た日本軍は連合軍捕虜たちを鉄橋の上に人間の盾として並ばせ戦闘機に手を振らせ、何とか連合軍パイロットに気付かせ、鉄橋爆破を回避させようとしました。
しかし、その期待叶わず、パイロットは人間の盾に気付かず、当初の命令通り、鉄橋を並んでいた捕虜もろとも爆破し捕虜は血まみれになって吹っ飛んでしまうという何とも残忍なシーンが説明パネル、蝋人形とともに再現されていて、これまた日本人としてやりきれない部屋となっています。
鉄橋から少し離れた慰霊墓地には整然と数百の墓石が並び、その日も多くの西洋人観光客が訪れていました。
この捕虜収容所の出来事は西洋人なら誰でも大戦の悲劇(時として今なお根強い反日の原因)として知っている歴史事実だそそうですが、日本の歴史教科書ではどこまで教えられているのでしょうか?
戦争博物館に英語とタイ語で書かれた言葉がいつまでも去り行く肩に背後霊のように重くのしかかってきます。<許そう・・でも忘れない>
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今回このカンチャナブリまでO氏と来た目的は彼が事前に日本で情報を入手した TIGER TEMPLE http://www.tigertemple.org/訪問。
HPによればカンチャナブリから35km離れた峡谷にあるお寺の高僧が傷ついて迷い込んできた1頭の虎を介抱し、
その後20数頭の虎がやってきて居つき、境内は虎のほかにも、牛、馬、いのしし、孔雀などの動物たちがともに群れ遊び、人と動物と自然が融合した、なんだかお釈迦様がいった極楽浄土のようなお寺・・・?
果たしてその実態は・・・ 本当に行きたい方がいらっしゃいましたら、個人的にご連絡ください。
その実情をお知らせします。 この場で明らかにするとあの<虎の穴>の復讐があるかもしれないので・・・
チェンマイで見た一昨日の衛星NHKニュース。
横浜崎陽軒のしゅうまいの成分表示の記載順番が違ったということで
またまた社長以下役員がマスコミの記者、カメラの前で<ご迷惑おかけしました・・>といって薄くなった頭を深々と下げてのいつもの日本的謝罪セレモニー、街頭でインタビューされたおばちゃんもしたり顔で<崎陽軒は信頼してたのに、子供も好きだったのに・・>とのいつものテレビ向けコメントが流れてきたのを見て、思わずソファからずり落ちてしまいました。
ちょっと待って・・・成分の帆立が澱粉の前に記載されただけで誰がどんな迷惑、被害をこおむったの??
最近、連日報道される賞味期限付け替え問題、日本では賞味期限は一体誰がどういう基準で決めているのでしょうか?
僕が日本で生活していた25年前は賞味期限の記載があったような記憶がありません。
その昔、賞味期限などという言葉さえ聞いたことがないご幼少のみぎりは古くなりかけた食べ物はまず母親かおばあちゃんが毒味して子供に食べさせてくれていました。その毒味結果がその賞味期限でした。
先月日本から来訪のS夫妻とのチェンマイの我が家での食事の際、チェンマイ有機野菜サラダにマヨネーズ、その賞味期限は10月末、
さすがチェンマイの野菜はおいしいおいしいといって完食、でもふとマヨネーズの容器をみると賞味期限は2006.10.31
皆思わず顔を見合わせてしまいましたが、さすが戦中後生まれの我ら、お腹も痛くならないねといいながら、笑ってその場はそのまま、
次の日、新しいマヨネーズを買ってきていましたがもったいないといって古いビンテージ、マヨネーズをまたそのまま使いきってしまいました。
あえて誤解を恐れずに言わせていただければ、消費者運動のおばちゃんに石を投げられるかもしれませんが経済の発展で物余り、金余りの日本、消費者保護が声高に叫ばれ衛生基準も益々厳しくなり、益々無菌、滅菌状態の生活習慣が身についてしまった日本人は免疫力が脆弱になり、アジアに旅行するとすぐにお腹を壊してしまうような脆弱な体質になってしまっているのではないでしょうか?
本来、人間の胃はあの死骸やウンチやゴミの流れるガンジス川の水を飲んでも耐えられるくらいの免疫力を持てるのではと、川の水を口に含み沐浴して祈る群衆を見ながらガンジス河畔ベナレスで思いました。
世界人口65億の倍の人口を養えるの食料生産がありながら、その大半が先進国で廃棄処分されたり、家畜の飼料、燃料生産に流用されてしまっている一方、今なお8億人が飢餓に苦しんでいるという矛盾に考えさせられてしまいます。
今朝も先月S夫妻が日本からお土産で持ってきてくださった賞味期限10月31日のWELL DONEの色の変わりかけた熟成納豆でおいしく朝食をいただきました。
今日の糧をお与えくださった神仏に感謝!
大宅 一裕
(おおたく かずひろ)
1949年
京都生れ(街頭テレビの力道山の空手チョップに街は熱狂していた)
1968年
神戸六甲学院高校卒業 (裸で便所掃除のスパルタ教育)
1969年
上智大学外国語学部入学(キャンパスにはシュプレヒコールが響き、街には藤圭子の歌が流れていた)
1973年
大手百貨店入社(婦人服部に配属も連日返品作業、催事場での呼び込みの毎日)
1982年
百貨店の海外開店のためファッション担当としてシンガポール出向駐在(?1986年)
(仕入れのため世界各国へ出張し、海外とりわけアジアの魅力にズッポリとはまる)
1987年
百貨店退職後、香港にてGardex Internatinal 設立
香港を基点にヨーロッパ、アジアでのファッションビジネスに携わる
2000年
タイ、チェンマイにて会社設立、旅行業、ファッション、雑貨、食品貿易業のかたわらチェンマイ郊外のプーディン小学校との交流、支援を継続中