
一昨年は洪水、昨年は煙害、今年は44度の酷暑、いずれも数十年ぶり,観
測史上初の天変地異に見舞われているチェンマイです。地球の歯車は確実に音を立てて軋み続けているように思えます。
チェンマイでタイ北部の少数民族やミャンマー難民の子供たちへの
教育ボランティアでカトリック活動グループの一員として活躍中のMWさんは
熊本出身、東京の音楽大学ピアノ科卒業後飢餓に苦しむアフリカ ジンバブエへJAICAから派遣され子供たちに音楽教育をしていたという筋金入りの国際ボランティア ウーマンでも外見も性格も話し方もマシュマロのような円満快活な大和なでしこ。先日来から日本の皆さんからお贈りいただいている使わなくなったピアニカの寄贈をMWさんにメール連絡したところ下記のような返信あり。
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大宅 一裕 さま
ピアニカを寄贈していただけるお話、本当にありがとうございます。
上司の神父様に話したところ、大変喜んでいました。
そして、神父様の方から、私たちが支援する村の子供たちが寮生活をして通っている
プラオにある学校でも、ぜひ使わせていただきたいと言っております。
学校の方でも、先生方がとても喜んでいました。
ピアニカの話を村の人にしたところ、子供たちと同じくらい、
大人の人たちが興奮していました。
学校は、チェンマイから2時間弱ほどのところです。
260名ほどの子供たちが通っています。
寮に住む子供たちは、現在、73名おり、カレン・ラフ・アカ族などの子供たちです。自分たちの村では、其々の理由から就学困難なため、様々な地域からやってきています。
このような、素晴らしいお話を本当にありがとうございました。
子供たちにとって、様々なことが学べる素晴らしい機会の一つになります。
どうぞよろしくお願いいたします。
MW
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皆様からご協力いただいたピアニカ数十台のうち今回はスーツケースいっぱいに10数台を香港、バンコク経由でチェンマイに持ち込み、フェアトレードイミオ社
倉林社長が以前ハンドキャリーいただいたサッカーボールといっしょに今日MWさんのベースとしているチェンマイ郊外サンカンペンのカトリックセンターへでお持ちしました。(今回は時間の都合で子供たちの生活する寮へはうかがえませんでした)
通り道まで出てずっと待ってくださっていた松本さんに案内されたカトリックセンターは広大な敷地にスタッフの住居施設、事務所棟、聖堂、神父館があり、それを取り巻くように無農薬栽培をおこなっている田畑が広がり、麻薬、エイズ、売春が蔓延する少数民族の人たちにこの施設で農業の研修を行い、また村へ帰って無農薬農業で生計を立てられるようにする研修活動施設として活用されていました。
事前にMWさんからの連絡で待っていってくださったのが、私財をすべて投じてこの少数民族の支援活動を1970年からなさっているタイカトリックの界では知らぬ人がいないほどの超有名なNIPHOT神父と農業指導のPITOUさん、100年前中国から仏教国タイへ移民してきた6代目カトリックのNIPHOT神父はマレイシアのペナンのセミナリオを学び、タイで初めての司祭となりパリ留学後、タイへ帰りこの活動を開始したとのこと、神父館のバルコニーでお話伺うことしばし、
「1980年しばらく大阪へ滞在し、相馬神父、浜尾神父たち日本の司祭とアジアのカトリック活動に ついていっしょに連日連夜話し合いをしました。皆すばらしい、聖職者でしたが残念ながら今は故人となってしましました。」
思わず僕はびっくりして
「エッ、浜尾神父さんはよく存じています。枢機卿として滞在中のバチカンにも2度もお訪ねし とてもよくしていただきました。
昨年突然亡くなられびっくりしました、3月横浜山手のお墓にお参りに行ってきました。」
NIPHOT神父もびっくりされ、思わず僕の手を握り
「今日のあなたの訪問は神と浜尾神父の思し召しです。( This is God's & Fr.Hamao's Will !)
今度お墓参りにいかれたら私からよろしくと(Best Regards)伝えてください。」
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何かとりつかれたような空気の中、NIPHOT神父の世界の食料問題、食の安全問題、タイ少数民族教育、HIVの現状などなどの現状について拝聴し、今、僕のスタッフがチェンマイ郊外プーディン村の農園で無農薬野菜を栽培してシンガポールの行列のできるレストラン<ABURIYA> へ毎週空輸しているとお伝えしたところ、将来的に少数民族の研修者が村で栽培する無農薬野菜も是非とも協力させてほしいとの有難いお申し出、またひとつ大きな夢がふくらんでいくのを感じながら
お別れの前にお持ちしたピアニカとサッカーボールを手にして記念撮影。
画像からはどこか田舎の寄り合いのようなで、そんな崇高な話題の雰囲気が伝わってこないかもしれませんが・・
次回チェンマイ訪問時にプラオの学校へピアニカを奏でる子供たちに会いに行くのが今から楽しみです。
あらためてピアニカをお贈りいただきました多くの方々にチェンマイから厚く厚く御礼申し上げます。
今回縁あってハワイ日本人婦人会主催のファッションショー会場、ワイキキシェラトンホテル ボールルームでの展示即売会へわが社の商品の出展のお誘いを受けてのハワイ行きとなりました。
ハワイの人口の25%は日系人、アメリカ本土と違って、島のいたるところにいろいろな懐かしい<日本>と出会えます。
戦前、農園の賃金労働者として移民した日本人は20万人、第2次大戦中は米兵としてヨーロッパ前線で母国アメリカのために戦った422連隊の勇姿は今なお語り継がれ、軍隊経験の多くの日系人は戦後、アメリカ政界、実業界でも活躍しました。1965年アメリカの移民法改正を機に新一世の日本人移民が渡来し、今では30万に達した日系人はハワイの中核的存在となっています。
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13日開催のファッションショーは艶やかに着飾った日系人や華僑、白人の婦人が千人近く一同に集い、ランチョンパーティー+ファッションショーをはさんで賑やかな国際的エベントとなりました。
日系人といえど、会話のほとんどは英語、ファッションも日本の着物の生地をリフォームしたネオジャパネスクのハワイアンファッションも多く見受けられ、今まで経験したことのない雰囲気の一大パーティでした。
僕が日本、東南アジアからハンドキャリーした100kgの商品の中身は日本、東南アジアのクリエーター、職人の皆さんが丹精込めて制作したアクセサリーの数々、また日本発ベトナム生産のインターナショナルブランド
<HIKOSEN CARA>の最新コレクションそして奥飛騨、東雲窯で友人陶芸家渡部徹氏が焼いた陶器、いずれもハワイ初上陸の作品ばかり、期待以上に多くのハワイのご婦人の皆さまにお褒めのお言葉と過分なお買い上げもいただき、またいっしょに出展していたハワイのクリエーター、販売会社の人たちとの出会いもあり、その中の香港系の楊さん、中国系のNIUさんたちからハワイ、アメリカ本土の代理販売の申し出もあり、今後の展開が楽しみになってきました。
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たそがれせまるころワイキキビーチでサンセットを見ながらの打ち上げ宴会、100年以上も前、日本への退路を断って太平洋を渡りここハワイへ移民した日系人1世がこのハワイの地に種をまき根を張ってその努力が今、しかっりと実を結び、ハワイの政治、経済、文化を支えているのを目の当たりに体験することができ同じく日本を離れアジアに生活し25年の若輩のわが身を顧み、何か太平洋を越えた連帯の熱波のような元気を感じさせてもらいました。
遠くに聞こえるハワイアンのメロディが潮風の乗って流れ、ハワイの宵は酔いとともに更けていきました。
今回ハワイ滞在中、お世話にになった皆さまへ感謝の気持ちをいっぱいこめて ALOHA・・・
香港から成田へ到着、翌日、同じ成田発ホノルル行き搭乗のため、3時間以上もかけて神奈川県のはずれ湯河原へ帰宅せず、空港隣接ホテル泊、
翌日、出発が21時のため、思い切ってレンターカーで南房総探索ドライブへ出発高速道路沿いに咲く春の花々に日本の四季を感じながら、一路南房総へ・・・
途中一般道沿いの古民家、看板には有形文化財 宮醤油店駐車して店内に入ると創業天保5年(1834年)とあり、外国暮らしの目から見ればすべて美味しそう思わず、醤油、漬物、ポン酢醤油などハワイ土産に買いこんでしまう。車は館山、白浜を過ぎて千倉へネットで調べておいた、これも創業明治2年の寿司屋 大徳屋でランチ、うわさ通りの地の魚を堪能、食後そのまま鴨川経由で成田空港到着は予定通りの18時。
100kgの大荷物とともにチェックインをすませ、定刻離陸、気流の影響か20分早くホノルル到着は同日午前9時現地在住義妹の迎えの車で一路今回の宿泊でお世話になるコムテック社のコンドミニアムへ、26階のベランダからの眺めは絶景、吹きわたる風はアジアでは経験できないドライで爽快。黄砂、花粉、工業排ガスの混入しない純度100%このおいしい空気こそ、ハワイならではと思いっきり深呼吸
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7日(日)朝ワイキキの海岸通りにあるカトリック セントアウグスティン海岸教会でミサ拝受、ハワイらしい陽気な歌ミサに身も心もハワイアン。
ハワイ在住信者のおじいちゃん、おばあちゃんたちと笑顔で握手、抱擁の<主の平和>の挨拶。前の老夫婦はチューしてた。
午後はかねてから行きたかったパールハーバーの記念館、1941年12月7日、日本空軍の奇襲で犠牲になった2390名の米兵の鎮魂と歴史的資料展示のため建造されたUSSアリゾナ記念館へ、入場は無料、$5で日本語説明のヘッドフォーンを借りて館内見学、真珠湾攻撃までの歴史的経緯、襲撃当日の刻々の事実が説明パネルと写真で展示してあり、その後シアターでの25分のドキュメンタリー映画、そして海軍の小型船で今なお引き上げられずに犠牲になった兵士の遺体とともに水深10mに残る撃沈された戦艦アリゾナの赤錆びた船体の上に建てられた記念館へ、そこには犠牲になったアリゾナ乗艦兵1177名の
名前が刻まれていて、戦艦の残骸から60年以上たった今でも、当時戦艦から抜かなかった油がプクプクと浮かび上がってきて、まるで戦死した兵士の慙愧の涙のようとのヘッドフォーンからの説明。
かって、ソウル、南京、ベトナム、シンガポール、クワイ川、知覧などなどいくつかの戦争関連の記念館を観てきたけれど、そのすべてが対戦国をこき下ろし、自国の都合のいい説明の展示に終始しているのに比べ、
このアリゾナ記念館は、いたずらに反日的な展示説明に偏ることなく、日本帝国軍部がなぜ、真珠湾攻撃に走らねばならなかったかという歴史的事実を極めて客観的に展示することに徹しさすが大国アメリカの大人の歴史分析の姿勢に感銘を受けました。
真珠湾攻撃で犠牲になった2390名の米兵に加え、死を覚悟で突撃して太平洋の藻屑となって散っていった64名の若き日本兵の御魂にも深く祈りを捧げさせていただきました。
日本人にとっては余り居心地のいいところではない記念館のせいか、日本人観光客の数は少なかったけれど、太平洋戦争の引き金にもなり、原爆投下、敗戦への発端となったこの事件を知るためには、日本人も是非観ておくべき資料館だと思いました。
またアメリカ人とつきあう上でも日本人として知っておかなければならない事実がここにあると思いました。
大宅 一裕
(おおたく かずひろ)
1949年
京都生れ(街頭テレビの力道山の空手チョップに街は熱狂していた)
1968年
神戸六甲学院高校卒業 (裸で便所掃除のスパルタ教育)
1969年
上智大学外国語学部入学(キャンパスにはシュプレヒコールが響き、街には藤圭子の歌が流れていた)
1973年
大手百貨店入社(婦人服部に配属も連日返品作業、催事場での呼び込みの毎日)
1982年
百貨店の海外開店のためファッション担当としてシンガポール出向駐在(~1986年)
(仕入れのため世界各国へ出張し、海外とりわけアジアの魅力にズッポリとはまる)
1987年
百貨店退職後、香港にてGardex Internatinal 設立
香港を基点にヨーロッパ、アジアでのファッションビジネスに携わる
2000年
タイ、チェンマイにて会社設立、旅行業、ファッション、雑貨、食品貿易業のかたわらチェンマイ郊外のプーディン小学校との交流、支援を継続中