ラフ族のラフの語源は<虎を狩る人>といって元来は狩猟民族。
ポンパー村の男の子たちもその血をひいて眼光するどく凛としている、
撮られ慣れないカメラ撮影でも二コリともしない、
文明社会での子供たちの定番ポーズのチーズもピースもシェー(古い?)もしない。
それよりそんな軽薄な(?)ポーズをとることすら知らない
獲物を狙う眼でカメラをにらむ、さすが狩人の末裔
子供たちへのお土産にチェンマイのスーパーマーケットから袋菓子とパック飲料を
買って行ってプレゼントした。
他のタイ人の村の子供たちなら、その場で飲み食いしはじめるのだが、ラフ族のほとんど子供たちは
ずっと持っていて、口にいれようとしない、集合写真撮影の時もお菓子の袋を封を切らず
大事そうに抱えている。
<ラフ族の子供たちはお菓子やジュースは嫌いなの?>と先生に聞いた、
<いいえ、めずらしいお菓子なので家に持って帰って家族皆で一緒に食べるのです>
胸に熱いものを感じた、
このラフ族の子供たちは貧しくても、学校教育もまともにうけてなくても、
自分を犠牲にして他人を、家族を思いやる心をすでに知っている。
<日本の皆さまからお贈りいただいたピアニカ第2便、先週タイ北部の山奥、
少数民族ラフ族の子供たちに届けてきました>
タイ北部 南北へ走る107号線は山間を縫うようにミャンマー国境の町メーサイへと通じ
付近の山岳地帯は古くから少数民族が中国、ラオス、ミャンマーから移り住み
悪名高い、麻薬の生産地<ゴールデン トライアングル>の一帯となっていました。
タイ王室、政府の懸命の努力の結果、マリファナから農業への産業転換が実施され、今ではほとんどが
付近の山奥の地で米、野菜の生産、栽培を生業とするようになっていますが、まだまだこの少数民族の
問題は中国同様、経済発展を遂げる国勢から取り残された社会問題として残り続けています。
北の都チェンマイから車で北へ3時間のメーアイの街から東へ車1台やっとの凸凹山道を4WDをジャンプ
させながら走らせる上ること30分、山奥深く山岳民族ラフ族60所帯200人が暮らすポンパー村へ、
ここで日本カトリック信仰宣教教会(http://jlmm.net)からひとり入りこんでボランティア活動をしている
日本人女性 Wさんの案内で皆様からいただいたピアニカ第2便を届けに行ってきました。
タイでの山岳民族の多くはいまだIDカードも持てずそのため町への移動、医療、教育に
大きな障害となっています。
また、タイ語がしゃべれず、コミュニケ―ションにも大きな問題があり職業が制限され、
今なお農業での現金収入は一世帯あたり1か月1000~2000バーツ(3500~7000円)と低く、
ID(身分証明)ないまま違法な出稼ぎに頼らざるを得ない状況が続いています。
病気になっても村の長の祈祷によっての治療に頼り、よっぽどの重病でない限りはなかなか山を降りて
タイの病院には行けません。
W さんは毎週週末はチェンマイから乗り合いバスで3時間かけ麓のメーアイの町まで来て、そこから待ってくれているラフ族の若者のバイクの後ろに乗って山道を駆け上がって半日かかってこのポンパー村にたどり着き、この村で泊まりがけで子供たちの教育の手伝いをやっています。
ポンパー村は、今まで行ったタイのどの村よりも貧しく、子供の半数は裸足、
家も簡素な板張りの立て床式、床下では鶏や豚を飼っています。
3年前当時の首相タクシンが少数民族助成対策として無料で全所帯に配布したはずの
ソーラシステムがなぜかここでは県の役人からは2000バーツを請求され、
一部金持ちの家庭しか電気が通じてない納得できない現状。
水は近くの川の水をそのまま使用。
学校も校舎はありますが、麓から泊まりでタイ語を教えに来る先生も一人、それも1か月に1-2週間で
帰ってしまい、子供たちも農繁期には皆、親の手伝いで畑に行ってしまい、ふだんは教室は閉鎖状態。
ここでは義務教育、教育の平等など以前の状況。
村人は日の出とともに起き、家族そろって畑にでて、
家族そろって3度の食事をし、日の入りとともに寝るという自然の摂理に従った生活。
家電も携帯もPCもないシンプルな家庭ですが、家族の絆に結ばれた人間的な生活が営われている
うるるんの舞台になるよう集落。
一緒に行ったタイ人スタッフにとっても、このようなタイにありながらタイ語もあまりしゃべれず、
前文明的な村の生活に軽いカルチャーショックを受け、日本人でありながらこの村へ深く入りこみ、
ボランティア活動をするWさんをタイ人でもなかなかできないとひたすら感嘆賞賛。
Wさんは日本で音楽大学卒のピアニスト、すでに1か月前、ピアニカの第一便を届けてくれて
子供たちはもうゆっくりですが、メロディーを弾けるまでになっていて、お母さんの一人は
毎日の練習でタイで毎朝夕流れる<国王賛歌>を弾けるまでに上達、さっそくの演奏に皆からの拍手喝采。
何もまともな教材もない学校にとって、子供たちだけでなく親にとっても今回の日本からのピアニカは
歓喜と興奮とともに迎えられたうれしいプレゼント。
今まで音楽教育も受けたことのない子供たちが、Wさんの指導でいつの日か子供たちが
合奏できる日が楽しみです。
お贈りしたピアニカ以上にこちらが価値ある人生体験をさせてもらったラフ族の村訪問でした。
ラフ族の皆さま、Wさん、そして日本のピアニカを贈ってくださった皆様に
オブーチャ !(ラフ語のありがとう !)
暑さ本番の6月のタイは年中で一番フルーツの豊富な季節、
街のフルーツマーケットでも色とりどりの果物が所狭しと並べられ店頭を飾っています。
果物の王様ドリアンも解体されトレイに並べられ、マンゴ、マンゴスティン、パパイア
ランブータン、ジャックフルーツ、ライチ、ロンガン・・・各種トロピカルフルーツが満載
どれも、高温多湿のこの季節に清涼感いっぱいの味覚を与えてくれます。
(ただしドリアン以外・・)
その昔、楊貴妃の大好物であったというライチ、玄宗皇帝は彼女への愛ゆえに長安から
遥か数千キロ馬を走らせ産地広州から取り寄せたという果物、
実は、ビタミンCやB、ミネラル等を豊富に含んだ美容食。
古来より中国では強壮剤としても珍重され、赤銅色の薄皮をむけば透きとおる果肉からあふれる果汁。
まさにマンゴスティンと並び果物の女王といわれる所以。


そのライチ、中国広州から雲南省を超え、今ではタイ北部でも多く生産されています。
先日、ミャンマー国境近くの山間部に遠出した際、山道沿いにピンポン玉大のライチがたわわに実り、
村の集積所に立ち寄り、味見をすると香港で食べる広州産よりも美味、さっそく少し買って帰ろうと
交渉したが、コンテナ単位しか売らないとのこと、多すぎると思いながらも、
その味を捨てがたく1コンテナ (10kg 400バーツ:1300円)購入し、
車に積んで持ち帰り、友人、スタッフに配り、残りを冷蔵庫で冷し毎3食後食べ始めて
3日目になりますが、食べども食べどもなかなか減らない・・・
もうやめておこうやめておこうと思いながら、なかなかこんなにおいしい産地直送ライチは
食べられないと思うとついついカッパエビセンのように手が伸びてしまいます。
これだけ食べれば少しは中国伝承の美容と強壮の効果はあるでしょうか??
わが農園を訪問いただいた方々には5年前からマンゴの苗木を植樹していただき、3年目からすでに
収穫できるようになっています。無農薬栽培のためか、その味は他では味わえない芳醇にして
とろけるような上品な甘さ。
植樹していただいた方には申し訳ないのですが今年も皆で美味しくいただいています。
ところが今年、異常に大きいマンゴ(25cm~30cm)が次々と結実。
タイ人スタッフもびっくり・・・
新種か突然変異か判りませんが、先日まだ緑の実を採ってきて、
黄色に完熟するのを待って試食しようと今から心待ちにまっているのですが、果たしてその味は??
1か月ぶりの香港は亜熱帯独特の高温多湿の季節に入り、ビクトリア湾も靄で煙っています。
留守中の5月12日の中国大地震被害者への募金依頼の手紙やメールが各所から届いていて
TVでも香港の歌手、タレントたちの募金コンサートを中継していました。
これまでお世話になった中国ですから香港赤十字を通して零細企業として分相応の範囲内での
ことはさせてもらうようスタッフに依頼しました。
中国からのTVニュースは国家、国民一体となって復興を推し進めているという自画自賛的報道ばかり、
被害にあい親も家もなくした子供たちが援助を受けてやたらにこにこしているのにはどこか違和感を感じ、
日本で報じられていた被災地の悲惨な映像や政府の無策に対する抗議行動の報道は一切なし。
それにしても今回のミャンマーのサイクロン、中国地震への義援金は最終的にどこに
どうやって届けられるのか、ついつい疑心暗鬼になってしまいます。
インド洋津波のときも、義援金は末端の被災者に行く前にタイ政府、軍隊の
小役人によって中抜きされていましたし、義援物資は闇市場に流れていました。
今チェンマイでも継続的にカンボジアへの援助衣料の横流し市場が存在しています。
特に今回ミャンマーへの善意の金品はミャンマー軍事政権の下での管理になるでしょうから、
被害を受けたミャンマーの人たちに届かず、反民主主義運動の資金となるのではとついつい疑ってしまい
いまだミャンマーへの募金には躊躇しています。
明日タイへ移動します。今回も皆様からご協力いただいているHIVで親を亡くした子供たちへの貴重な奨学金と山岳民族、難民キャンプの子供たちへのスーツケースいっぱいの善意のピアニカ第2便を
決して中抜きも横流しもせず、そのまま、直接子供たちに届けに行ってきます。
新たな笑顔の子供たちとの出会いを楽しみに・・・
この25年間で初めての1か月に長きに及ぶ日本滞在でした。
苦手な花粉も治まり、気温のアップダウンはあったものの爽やかな初夏5月
南国生活で忘れていた四季ある日本の良さを再確認した1か月を終え昨夜、香港に帰国しました。
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関東のわが寓居は神奈川県の西端の町、相模の小京都(とは町観光協会のうたい文句)湯河原、
GW帰国直後、ふと思い立ちJRで西へ四つ目(20分)の沼津へ寿司を目的に出かけていきました。
JRを降りて鯉のぼりはためく狩野川べりを歩いてネットで事前に検索しておいた沼津港の寿司屋街へ
到着。
ところが時あたかもGWのど真ん中、どの店も行列ができるほどの超満員、
ようやく席ある店をみつけ駿河湾の旬の肴と酒を堪能し、
いい気分で松原を抜け富士海岸をたどれば雲の合間から富士山が顔を出し、
駿河湾の海は初夏の陽を浴びて輝き、銭湯の壁絵のような世界にひたっていました。
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15日から17日までは恒例の神戸国際宝飾展にタイ生産のアクセサリーの数々を出展
今年も多くのバイヤー、友人、知人にご来訪いただき、新たな商談も多くいただき、
一家総出の我が家の一大イベントも無事終了した翌日は五月晴れ。
神戸の寓居の裏山の六甲山へケーブルカーで登り、神戸で過ごした若き日を回想しながら散策しまし
た。
おりしも高山植物園の花は満開、妻は買いたての一眼レフでバチバチ・・・
夕方から下界に降り中学高校の同期、先生と宴会、東京から故あって神戸へ一時転居し出席の
前代未聞、臥薪嘗胆、四面楚歌の独り修行の旅を継続中のO君の話題に集中。
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20日は昨年チェンマイへお越しいただいた芦屋市国際交流協会(ACA)の役員の皆さまのお招きで港町神戸で138年の伝統のある KR & AC (神戸レガッタ &アスレティッククラブ)http://krac.org/japanese.shtmlで夕食。
今年11月から少年時代9年間過ごした芦屋市とチェンマイ、プーディン村とのさらなる交流を
開始したいとのありがたいご提案あり。これも何かのご縁、新たに始まる国境を越えた人物往来が楽しみです。
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25日は雨模様の中、母校の大学の卒業生、在校生の集いにでかけ、懐かしい面々と再会、
卒業以来25年間はすっかり疎遠になってしまっていた母校でしたが最近にわかに大学、先生、卒業生の
方々とのお付き合いを頻繁にさせていただくようになり、我がチェンマイプーディン村へもソフィア会(OB会)
卒業生の皆さま多数のご来訪、ご支援をいただくことになっており感謝、感激です。
雨もあがり校内のメインストリートでのグランドフィナーレ、応援団、グリークラブ、チアガールによる
校歌合唱、近くへ寄って激写と思いきや、チアガールの至近距離での撮影は許可なくできないとのこと。
おじさんはあえなく機先を制されてしまいました。(こんな条例ご存じでしたか??)
この1か月、日本滞在期間中、数多くの方にお会いすることができ、またまた有意義な毎日を
過ごさせていただきました。
大宅 一裕
(おおたく かずひろ)
1949年
京都生れ(街頭テレビの力道山の空手チョップに街は熱狂していた)
1968年
神戸六甲学院高校卒業 (裸で便所掃除のスパルタ教育)
1969年
上智大学外国語学部入学(キャンパスにはシュプレヒコールが響き、街には藤圭子の歌が流れていた)
1973年
大手百貨店入社(婦人服部に配属も連日返品作業、催事場での呼び込みの毎日)
1982年
百貨店の海外開店のためファッション担当としてシンガポール出向駐在(?1986年)
(仕入れのため世界各国へ出張し、海外とりわけアジアの魅力にズッポリとはまる)
1987年
百貨店退職後、香港にてGardex Internatinal 設立
香港を基点にヨーロッパ、アジアでのファッションビジネスに携わる
2000年
タイ、チェンマイにて会社設立、旅行業、ファッション、雑貨、食品貿易業のかたわらチェンマイ郊外のプーディン小学校との交流、支援を継続中