
本日、成田空港に隣接するホテルへチェックインし、明朝9:00のアシアナでソウル経由フランクフルトへ
発ち3週間かけて、ドイツ、イタリアを巡ります。
25年前から百貨店マンとして仕入れに年に2回、そして独立してからも頻繁に数年間、
計15回~20回訪れたヨーロッパに20歳代ドイツで学生、社会人生活を送っていた妻と最初で
おそらく最後になるであろう初老夫婦いっしょにそれぞれの思いを胸に訳ありの欧州行きとなりました。
人生のこの時期、時間的にも経済的にも決して安易な計画ではなかったかもしれませんでしたが、
今までの人生、<やれるときにやっておく>という明日を知らない出たとこ勝負の人生を送ってきた
僕にとって人生の宿題になっていた妻同伴の欧州再訪を一気に今回挙行することにあいなりました。
9月3日~10日大学同窓生グループ30名でのサルディニア、ローマ、フィレンツェ以外はガイドなしの
個人旅行です。
事前に妻がネットでホテル、航空券は予約していましたが、その昔に比べ驚愕のユーロ高、物価高・・・
果たしていかなる珍道中になりますら・・??
現地でのネット事情は不明ですが、できる限りホットな現地レポートを配信する予定です。
26日早朝 初めて今年就航した香港ー羽田便で日本に帰国しました。
先週はちょっとハードな移動でした。
22日 チェンマイースコタイ
23日 スコタイーチェンマイ
24日 チェンマイ―バンコク
25日 バンコク―香港
26日 香港ー羽田
ANA香港便は午前1:40発、(香港空港は24時間OPEN)
少し早いが香港オフィスを25日10:00pmに出て、10:40pmに香港空港到着したがチェックインは11:00pmからとのこと、少し待ってチェックインをすませ、
ラウンジで時間をつぶすことに、(距離は短いが、年中アジア回遊の結果、スターアライアンスゴールドカードが送られてきているお陰で、エコノミーチケットでもラウンジ使用可)
搭乗まで2時間以上あり、ノートブックを開いてメールの整理をしていたが、いつも10時就寝5時起床の健康老人的生活をしているためこの時間ひたすら睡魔との戦い。やっと1:20am搭乗案内、
いつもは人でいっぱいの空港内も深夜のため人影もわずか。
搭乗カウンターでチケット提示すると係員が
「エコノミーが満席のため、恐れ入りますがビジネス席に移動していただいてよろしいでしょうか?」
「よろしい~よろしい~」(眠気ふっとび声がうわずる)
ルンルンで機内に入ると古い機体でビジネス席も旧仕様ですが満席。
予定時刻通り1:45am離陸、飲み物サービス後、2時(日本時間3時)消灯
しばらくうとうとしたかと思っていたが点灯され窓の外は白みかけて時計をみると5:00am(日本時間)
やがてさすがビジネスクラスの豪華な朝食が運ばれてきたので、丁度手元にあったカメラでパチリ、
隣の席をみると香港マダム風のおばさんが
「あらイヤダこの人、うれしそうに写真なんか撮っちゃって、きっとビジネスクラスがはじめてなのね・・・」
といいたそうな冷たい横眼でこちらを見ている。
予定より早く6:25am羽田到着(飛行時間3時間40分)、
すでに20分先に香港を発ったJAL便が先に到着していて入国管理、税関も混んでいる
現在羽田で離着陸している国際便はソウルキンポ空港便、上海虹橋便、そして香港便の3路線。
羽田国際便棟は出発到着が同じ階のため到着ホールはソウル行搭乗チェックイン待ち客ですでにいっぱい。
都心までモノレール、京成、バスで20~30分、やっぱり成田より断然便利。羽田空港国際線発着大賛成!
預け荷物をピックアップして宅急便で自宅へ先に送り身軽になったものの
時刻はまだ7:00am、東京四谷でのアポイントまでまだ5時間ある。
どこで時間つぶそうかと思いついたのが、30年前、大丸東京店勤務時代、塚田信先輩(現京急百貨店常務)とよく行っていた東京八重洲口のサウナ、モノレール、JRを乗り継いでサウナ到着、早朝割引で¥1600。
外装は30年前とは変わっていたが浴場のレイアウトは昔のまま。タイムスリップした気分で朝風呂にどっぷり、極楽、極楽。
浴場も休憩室もこんな時間なのに満員。(刺青、パンチパーマ客はいない)
さすが大都会東京、いろいろなライフスタイルの人たちがいるものだ(自分もふくめ)と思いながら、入浴後しばし仮眠し3時間後すっきりし外へ出て、酷暑の日本滞在生活を始めました。
しかし今年の東京は暑いですね。
(タイのほうがよっぽど過ごしよかったです)
この25年間で初めての1か月に長きに及ぶ日本滞在でした。
苦手な花粉も治まり、気温のアップダウンはあったものの爽やかな初夏5月
南国生活で忘れていた四季ある日本の良さを再確認した1か月を終え昨夜、香港に帰国しました。
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関東のわが寓居は神奈川県の西端の町、相模の小京都(とは町観光協会のうたい文句)湯河原、
GW帰国直後、ふと思い立ちJRで西へ四つ目(20分)の沼津へ寿司を目的に出かけていきました。
JRを降りて鯉のぼりはためく狩野川べりを歩いてネットで事前に検索しておいた沼津港の寿司屋街へ
到着。
ところが時あたかもGWのど真ん中、どの店も行列ができるほどの超満員、
ようやく席ある店をみつけ駿河湾の旬の肴と酒を堪能し、
いい気分で松原を抜け富士海岸をたどれば雲の合間から富士山が顔を出し、
駿河湾の海は初夏の陽を浴びて輝き、銭湯の壁絵のような世界にひたっていました。
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15日から17日までは恒例の神戸国際宝飾展にタイ生産のアクセサリーの数々を出展
今年も多くのバイヤー、友人、知人にご来訪いただき、新たな商談も多くいただき、
一家総出の我が家の一大イベントも無事終了した翌日は五月晴れ。
神戸の寓居の裏山の六甲山へケーブルカーで登り、神戸で過ごした若き日を回想しながら散策しまし
た。
おりしも高山植物園の花は満開、妻は買いたての一眼レフでバチバチ・・・
夕方から下界に降り中学高校の同期、先生と宴会、東京から故あって神戸へ一時転居し出席の
前代未聞、臥薪嘗胆、四面楚歌の独り修行の旅を継続中のO君の話題に集中。
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20日は昨年チェンマイへお越しいただいた芦屋市国際交流協会(ACA)の役員の皆さまのお招きで港町神戸で138年の伝統のある KR & AC (神戸レガッタ &アスレティッククラブ)http://krac.org/japanese.shtmlで夕食。
今年11月から少年時代9年間過ごした芦屋市とチェンマイ、プーディン村とのさらなる交流を
開始したいとのありがたいご提案あり。これも何かのご縁、新たに始まる国境を越えた人物往来が楽しみです。
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25日は雨模様の中、母校の大学の卒業生、在校生の集いにでかけ、懐かしい面々と再会、
卒業以来25年間はすっかり疎遠になってしまっていた母校でしたが最近にわかに大学、先生、卒業生の
方々とのお付き合いを頻繁にさせていただくようになり、我がチェンマイプーディン村へもソフィア会(OB会)
卒業生の皆さま多数のご来訪、ご支援をいただくことになっており感謝、感激です。
雨もあがり校内のメインストリートでのグランドフィナーレ、応援団、グリークラブ、チアガールによる
校歌合唱、近くへ寄って激写と思いきや、チアガールの至近距離での撮影は許可なくできないとのこと。
おじさんはあえなく機先を制されてしまいました。(こんな条例ご存じでしたか??)
この1か月、日本滞在期間中、数多くの方にお会いすることができ、またまた有意義な毎日を
過ごさせていただきました。
青葉茂れる春5月、久々にゆっくり日本の春を堪能しています。
15日~17日恒例の神戸国際宝飾展にタイのクリエーターたちが丹精込め
て創った村おこしのアクセサリー多数を出展し、一家総動員態勢で今年も多くのバイヤーに来訪いただき実り多い商談をさせていただきました。
新商品は楽天サイトでも紹介させていただいています。
名古屋からJR高山線 特急ひだ3号に乗り換え、列車は幾度も飛騨川と交叉しながら山合いを縫うように走ること2時間半、観光のメッカ飛騨高山で名古屋からの乗客のほとんどが降車、我々中学、高校時代の仲間は次の駅、雪なお残る終点飛騨古川の降車場で、級友陶芸家の渡部徹兄と10年ぶりの再会を果たしました。お久しぶりの挨拶もそこそこに彼の運転する車で山越えの雪道を走ること40分で春まだ遠い奥飛騨神岡にある渡部家の住居兼工房兼カフェ<やまの庵>東雲窯に到着しました。
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渡部 徹 (わたなべ とおる)
陶 歴
1949年 兵庫県西宮市に生まれる
1968年 私立六甲学院高等部卒業
少年期より美術を志し、柳宗悦著『工芸の道』で
焼き物の民芸美に魅せられ河井寛次郎の高弟
上田恒次の門をたたく
1970年 京都五条坂の府立陶工訓練校卒業
洛北の上田家にて修業、登り窯による作陶に携わる
1978年 独立。滋賀県蒲生野に築窯し『標野窯』と命名する
1982年 日本民芸館展奨励賞受賞(白磁平鉢三種)
1983年 神戸にて初めての個展を開催
1984年 国展の野島賞受賞(染付印判手草文大皿)
1986年 日本民芸館展奨励賞受賞(呉須刷毛目七寸組皿)
1991年 国画会会友に推挙
1996年 国画会を退会
2004年 岐阜県飛騨市神岡町東雲に古民家を移築再生し、
やまの庵を有志により設立。『東雲窯』と命名する
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神岡はかっては銀、銅、亜鉛などを産し東洋NO1の鉱山として繁栄を極めた町,今は鉱山の採掘中止、移転、公害問題などですっかり衰退し、かって3万人の人口も1万人以下になり、話題となるのは坑道跡に施設されたノーベル賞受賞の小柴教授のニュートリノの実験施設くらいになっていました。2004年神岡の町おこしNPOの誘致の縁があり、渡部兄はそれまでの拠点滋賀県蒲生郡から家族で神岡へ移住し、神岡鉄道の駅舎の前の絶好の立地に古民家を移築、改装した<やまの庵>
工房、窯を立ち上げ制作を始め、観光客も訪れ奥様は民家の1階でカフェを開店し、飛騨牛のスジカレー、手作りケーキも人気を呼び、、町のバックアップもあり第2の人生を順調に船出したかにみえました。
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不幸はある日、突然、雪崩のように襲ってきました。
●町起こしのNPOの破たんによるプロジェクトの中途挫折、旗振り役、スポンサーの消滅、
●観光客動員の要であった神岡鉄道の廃線、
●そして昨年、渡部兄の身体に病魔が襲い、入院、大手術
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我々の今回の訪問はそのような暗澹たる状況を知った上でのお見舞いをかねた奥飛騨行きでした。いろりを囲み奥様、お嬢さんが丹精こめて作っていただいたカレーをいただきながら、渡部兄のこれまでの神岡生活のこと闘病生活、これからの創作生活の次第を拝聴。神岡を取り巻く逆境は変わらないけれど、健康状態も創作意欲回復基調のようで一安心。
この山里で家族の愛に支えられ、地獄を見た匠の懸命に飛翔しようとする姿に心打たれエールの盃を重ねる我々の傍らで酒も飲まずに渡部兄は静かに熱く語り続けていました。そばにはいつも笑顔を絶やさないN夫人、どんなときも渡部兄は彼女に支えられてきていることを再確認。
踏まるほど、強く芽を吹け雪割草
神岡鉱脈からの陶土の1級品は瀬戸、多治見の尾州産地へ販売され、残った多種の鉱物の混じった陶土を渡部兄は譲り受け、時間をかけて手作業で精製しその東雲窯ならではの独特の土をろくろにかけなおかつ、ピンセットで丁寧に砕片を除去しながらの創作作業、その器は粗にして優雅、奥深い緑色の中から匠の生命の息吹が伝わってくる、名付けて<神岡青磁>
今まで滋賀蒲生の窯で焼いていた白磁と並べると渡部兄の壮絶な人生が鮮やかに浮き上がってくるような世界。
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病後まだあまり制作していない庵にあった数少ない作品を皆で購入させてもらい、庵を辞し、運転のため酒を飲めなかった渡部兄に再び飛騨古川まで送ってもらい、列車を待つ間、しばし古川の町を探索、古川は司馬遼太郎が<街道をゆく 飛騨紀行>で絶賛している町
ともかくも古川の町の町並みにはみごとなほど、気品と古格がある。
観光化されていないだけに、取りつくろわぬ容儀や表情、あるいは人格さえ感じさせるのである。
NHK連続小説<さくら>の舞台となった古川の創業300年の和ろうそく屋、酒蔵などを巡り、駅前の食堂でおばちゃんお薦めの昔ながらの中華そばを皆で食べながら、渡部兄へ再度のエールを送り、すがすがしい思いで飛騨の郷を後にしました。
奥飛騨の匠に幸あれ・・・
渡部徹兄の作品ご希望の方は是非ご一報ください。
<やまの庵>tfngk363@yahoo.co.jp
亜熱帯生活に慣れた還暦前の体には今年の日本の寒さは沁みるように厳しく、早くも舞い始めた花粉もあいまって外出が億劫になり湯河原の寓居で
半ば冬眠状態のように毎日引きこもっていましたが、今回の日本滞在中どうしても果たしておきたいことのため、香港へ発つ前の27日横浜へでかけました。

横浜の街はふるさと神戸に似た坂道のある港町でどこかなつかしい町並みです。とりわけ山手のみなとが見える丘公園あたりは遠くに霧笛が鳴り
文明開化の面影が残り歴史を感じさせるハイカラで瀟洒な建物が並んでいます。その一角にあるはずのその人のお墓を訪ねる前にまず山手カトリック教会の信徒会館で墓地の場所を確認し鍵をお預かりし、港を見渡す外人墓地に隣接したカトリック山手教会墓地へ向いました。
カトリック墓地の中央にある横浜教区司教司祭のための三角錐の大きな墓碑に昨年11月8日帰天された濱尾文郎枢機卿のお名前を見つけ、訃報の連絡をいただきながら、葬儀ミサにも参列できなかったお詫びの気持ちをこめて凍るような水をタオルにたっぷり浸し、墓石を丁寧に拭きなで、あの2度にわたってバチカンでごいっしょしていただいた日のことを感謝をこめて回想し、妻といっしょに声を出して主の祈りと天使祝詞を唱えさせていただきました。
これでやっと昨年来から気になっていて今回の日本帰国中の大きな宿題を果たすことができほっとした気持ちで坂道を降りて行きました。
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旧正月を1週間後に控え喧噪に包まれた年末の香港に帰国しました。
気温は異例の9度、どの建物にも暖房設備のない香港の室内体感温度は日本以下、オフィスではスタッフも、もこもこの厚着をし、マフラーを巻いて震えながら年末の追い込み業務に追われています。日本を出る時、これで寒さから解放されると思っていたのに
どっこい・・これでは日本より寒い・・トホホ・・・
少々長くなりますが・・・
1549年フランシスコ ザビエルによって伝えられたキリスト教は織田信長、諸大名の加護の下、50年たらずの間に急速に信者数を増やし、1590年にはすでに信者数は30~40万人にも達し、人口5万人の長崎ではそのうち4万人も洗礼を受けていたともいわれています。豊臣秀吉も1587年キリスト教布教禁止令を出しながらもその宣教活動を容認していましたが、1596年になりその勢いに危機感を感じたのか一転し、キリシタン禁止令をさらに厳しくし、その見せしめとして京都の宣教師、信者24人を(日本人のみならず、スペイン人、ポルトガル人)捕らえ収監し、左耳をそぎ落とし、京都、大坂、堺の町を引きずりまわし。処刑は信者数の多い長崎でと決め、陸路2000kmを首、両手を縛り、家畜のような扱いで山陽道、唐津を経て、2月4日長崎大村湾を小船に乗せ時津港に着いたのは深夜、一晩寒風吹きすさぶ港で野ざらしにし、極度の飢え、寒さ、疲れのうちに月5日朝の6時に時津港を出て5時間後の11時に長崎西坂の丘に到着後、準備されていた十字架に附けられ、槍で刺して惨殺していましました。
この間、途中岡山で加わった2人を含め26人は残酷な扱い、役人たちの棄教の誘いにも屈せず、お互い励ましあい、祈りの聖歌を謳いながら全員、歓びにあふれて殉教の道を歩んだといわれています。そのなかにはまだ20歳にも満たない少年たちも含まれ沿道の人たちの涙をさそったとか・・・
今回、縁あって中学時代からの旧友、谷口兄(早期退職し、今は外国人居留地研究家)と先祖が隠れキリシタンの87歳のシスター相川、そして僕たち初老夫婦の4人が26人殉教者が最後に歩んだ道(長崎時津港から西坂まで)をその当時と同じルートを徒歩で辿ることから長崎巡礼の旅をスタートしました。
まずは時津港の26聖人殉教記念碑で記念撮影のあと、谷口兄が事前に調べ上げた400年前の26聖人が辿った同じ街道ルートに沿って歩き始めました。
歴史の街長崎のアップダウンの街道をよぼよぼ歩く老シスターは行き交う人からたびたび声をかけられ、シスターに献金まで渡すおばちゃんまで現れました。
4人は途中、数々の史跡を26聖人の足跡を想いながら5時間半かけて西坂の処刑地に到着。26聖人記念碑の前で万感の思い込めて祈りを捧げました。
(僕だったらおそらく耳をそがれると聞いただけで即時に失神してしまいそうなの状況の中、26聖人にそこまでの殉教を可能にした信仰のエネルギーの源泉に思いをはせながら・・)
その後日本でのキリスト教は徳川幕府鎖国政策の中、厳しく禁止され宣教師は国外追放、信者は踏み絵などの迫害を受け、多くの信者は棄教、離教する中
数千人の信者は役人の目を逃れ密かに260年間、静かに信仰を守り続け、幕末フランス人宣教師プチジャン神父によって長崎浦上天主建立後、天主堂に密かに忍び込んできた信者たちが堂内のマリア像を見て、自分たちと同じ神であることを告白し、キリシタン発見となりました。
それでも幕末、維新後の政府はキリシタン禁止政策を変えず、長崎奉行は異教徒のブラックリストを作成し、捕らえ国内各地に移送し説諭、拷問を繰り返し、棄教させようとし、ここでも多くの殉教者を出すことになります。
今回の旅行であらかじめ谷口氏が閲覧予約していた長崎歴史博物館でのを当時のブラックリスト台帳を閲覧したシスターは、、その中に祖先の名前を発見し、思わず涙ぐみ手を合わされていました。
その後5日間かけて我々は長崎市内から車を走らせ神の島、西彼杵郡、黒崎、出津、平戸、生月の教会、墓地、史跡を巡り、どんな田舎の村にも小さいながらも厳かに立つ教会を訪れ、ある時は命をかけて守り続けその生活に根ざした 普段着の素朴な信仰の姿に心打たれ、元音楽教師だったシスターのオルガンの伴奏で古い懐メロ聖歌を心を込めて各教会で歌いました。
また谷口兄の案内で険しい山道の奥深く、人目をしのぶように石を置くだけで墓碑を刻むこともできず密かに埋葬されているキリシタン墓地に立ち日本キリスト教の原点を心厳かに黙想させていただきました。
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今日は2000余年前、中東の寒村ベトレヘムの馬小屋で大工の子として人知れず生まれ、33年の短い生涯にもかかわらず、その後世界で最も多くの人々の心にメッセージ(福音)を送り続けることになる方のご生誕日、その教示はあるときは政争のあるときは権力の具とされながらも脈々と清新な息吹とともに現代世界にも生き続け、このご生誕日は信仰、政治、国境を超えて世界中のフェスティバルになってしまいました。
仏教国タイにも布教され、少数ながら真摯にキリスト教信仰を持っているタイの人たちとあの方の誕生を歓ぶミサに与るために
僕たちも今から深夜のチェンマイ聖心教会ミサに行ってきます。
世界の平和と皆様の幸せを心から祈りつつ Merry,Merry Christmas!!
先週末の阪神巨人戦は球史の残る試合だったようですね
香港では映像での観戦はできませんでしたが日刊スポーツのWEBサイトの
リアルタイム中継にかじりついて見ていました。
(今週に入ってから阪神は燃え尽きたような状態ですが・・)
5月帰国の際、友人のT氏からもらった神宮でのバックネット裏のチケットで
ほとんど阪神ファンに埋まった阪神ヤクルト戦をナイター観戦しました。
試合の前、得点の度、試合の後、あの<六甲颪>が歌声が球場に響き
おっちゃんもおばちゃんもおねえちゃんもおにいちゃんも子供も声をからさんばかり、なかにはなみだ目でメガフォンを振りながら絶唱していました。
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先日神戸帰国の際、夕方に乗った阪神電車でも今から甲子園球場へ父親と行くタイガースのユニフォームを着た5歳くらいの男の子が独り六甲颪を小さな声で3番までくちずさんで練習しているのを見かけました。
阪神ファンのとって六甲颪は魂の歌となり、元気の源のような歌で、
朝日放送で毎朝放送されている番組で道上洋三アナは阪神が勝った翌日には毎朝六甲颪を3番まで絶唱しhttp://abc1008.com/ohapaso/frame.html、
その放送聞いた阪神ファンはその日一日気分をよくして出かけていくようです。
この放送はWEBラジオで海外でも聞くことができ元気をもらっています。
それにひきかえ・・・・・・
サッカーの国際大会の前に流れる国歌<君が代>、大写しにされた選手は何か気恥ずかしそうに声を押し殺しているように
くちをぼそぼそさせているだけで、他の国の選手たちが誇らしげに謳っている姿に比べまったく元気が感じられません。
それは君が代の旋律のせいか意味不明(?)の歌詞のせいかは判りませんが、大相撲の千秋楽以外にはスポーツの応援には全く不向きな国歌ではないでしょうか?(そんな発言をすると右翼の人にどつかれそうですが)
本来国歌は<六甲颪>や<若き血>や<都の西北>や、<見よ永遠に>や<青垣なせる>のようにそれを謳うことによって
士気を鼓舞されたり、国家の連帯感をもつような意味あいをもつものとすれば、君が代の廃止、変更が無理であればせめて国民が肩を組み合ったり、拳を振り上げながら謳えるような国歌的応援歌を制定してはいかがでしょうか?
(ここではあえて六甲颪を国歌にとはいいませんが・・)
タイでは毎朝8時全国の学校で国王賛歌(国歌ではなく)が流れ、映画の前にも観客は規律してこの歌を斉唱し、国民は国王の下愛国心を再確認しています。
ふと考えれば僕がキチンと君が代を謳ったのはいつの日か思い出せないほどの昔になってしまっています。
(そして我が家にはいつのころから日の丸もなく、国旗掲揚もしていません)
アジアの家々はことあるごとに家の前に国旗を掲揚していますが・・・
日本在住の方々はいかがでしょうか?
ちなみに六甲颪は年に何回かカラオケでバカ友だちといっしょに絶唱し
その後でついついハイになって叫んでしまっています「ママ ボトルもう1本!」

1月日本帰国の際、JR新宿から高島屋へ通ずるサザンテラスに黒山の人だかり、何事かと近くによってよく見れば<KRISPY KREME クリスピークリーム>なるアメリカのドーナツ店、昨年12月15日開店とかで1ヶ月たってもこの行列、
それから5月帰国の際、その行列がまたまた長くなっていました。行列整理のガードマンのおっちゃんにどれくらい待つのと聞くと1時間半、おっちゃんも食べて超美味しかったとのこと1時間半も待っても食べる価値のあるドーナツとはいかなる味だろうとずっと気になっていましたが・・・
3日前、日本から到着した香港国際空港の到着ロビーに見覚えのある<Krispy Kreme>のロゴ
誰も並んでないひっそりとしたたたずまい、思わず駆け寄り店員お奨めのオリジナルグレーズド(10ドル、¥150)を買い求め、その場でガブリ・・・・
美味しいと言えば美味しいし、普通ドーナツといえば普通のドーナツ (今まで意識して他のドーナツも食べたことがないので評価は困難)
でも香港仕込みの国際的せっかちな性格ゆえ、わざわざ1時間半も行列しても食べたいとは絶対に思いませんでしたが・・・
古くより日本人は行列好き・・モナリザ、ミロのビーナス、パンダ・・・
ところが実際現地のルーブル、上海動物園に行って、誰も並んでないどころか人さえまばら状態には気が抜けてしまいました。
ではあの行列の仕掛けは口コミ、マスコミ、ネット、やらせ・・?
A嬢からの情報によればマーケティングを担当しているREVAMP社の仕掛けとか
農耕民族の日本民族は集団行動型、皆が田植えのときは皆で田植え、稲刈りのときは稲刈りのときは稲刈り、右へならえの行動をしていると安心できるようで、皆が行列すると、行列したくなるのでは・・・
日本人がよく言う、<場の雰囲気を読め>、日本人は大衆場面で独り異質のとんがった言動とるのを嫌うようですね。
例えばニュースショーでのコメンテーターなる人物たちも司会者(みのもんた、田原総一郎・・・)の意見に逆らうことなく場の雰囲気にあった適当なコメントばかり、
まかり間違っても
<領収書の付け替えなんて政治家は日常茶飯事、細かいこと気にせず、赤城農相も辞任せず、ぞのもまま堂々と公務優先すべきとか・・?>
<朝青龍も独り横綱で長年相撲協会に貢献してきたのだから仮病でもなんでもOK,4ヶ月くらいモンゴルでもどこでも行って有給休暇あげたら・・?>
とかは口がさけてもいえず、そんな発言をしようものなら、たちまち番組降板、自身のブログは炎上してしまうでしょうね。
マスコミ、風評が誘導すれば、さくらパパでも丸山弁護士でも選挙権のない丸川珠代でも簡単に当選できるし、
このままマスコミを味方につければ国民投票ででも簡単に憲法9条も改正され、日本はいつか来た道に逆戻りしてしまう危うさを感じています・・・
と、またくだんのドーナツを近所にもあったKrispy Kremeショップから買ってきてほおばりながら日本人の行列の思いをめぐらしているのですが、(もしかしたら このドーナツ美味しいかも・・)
ドーナツから憲法改正は飛躍しすぎでしたか・・??
昨日8月6日は広島で原爆が投下された日
母方の祖父も広島で被爆し犠牲になりました。
僕も原爆投下から11年目の昭和31年から35年までの小学生時代広島市内で過ごしました。そのころ広島の人々は原爆のことを<ピカドン>と呼び、街にはまだ痛々しいケロイドの傷をもつ人たちが大勢いました。
よく遊んだ比治山にはABCCというアメリカの研究施設があり、原爆被害の人たちの治療にあたっていると聞いていましたが、
実は被爆の人たちを運び込みモルモットのように検査生体として扱い一切の治療を施してなかったことを最近知りました。

原爆ドームの近くにある原爆記念碑には<安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから>と刻まれていますが、
この文面は主語不明、誰のどういう過ちなのか?
原爆を落とされるようなボコボコの仕打ちをうけた日本の過ちなのか?
戦争の終結を早めるため投下したと主張するアメリカの過ちなのか?
そして何よりも原爆投下にまで至った戦争がどうして始まり、どうして負けてしまったのかという歴史もはっきりと教えられないまま、
平和記念資料館展示の惨たらしい写真、遺品のみを見せつけられていたような記憶だけが残ってしまいました。
昨日、日本の家人からのメールで町役場のスピーカーから広島原爆投下の8時15分、皆で黙祷しましょうとの呼びかけがあったとか・・・・
あれから60年以上も経った今、人々は何を思い、何を祈って黙祷しているのでしょうか?
2005年8月6日午前8時15分、87回夏の甲子園、全国高校野球広島代表の高陽東の工藤真司主将が開会式を前に集合した48チームの選手たちに<被爆地の高校生としてピカドンで亡くなられた人々のために黙祷を>と提案したところ、高野連の田名部参事が<原爆は広島だけのこと、この場で皆を巻き込むのはよくない>と制止され、高陽東の選手たちは列を離れ自分たちだけで広島の方向に向って黙祷したとのこと
15日の終戦記念日の正午には高野連(or主催者朝日新聞)の指示のもと原爆被爆とは違ういかなる意向でか、いまだに高校野球の球児たちはプレイを中断して黙祷させられています。
当の高校では日本史は選択科目で選択しても受験に余り関係のない昭和史は適当にはしょってしまっているとか・・どれだけ高校生はあの戦争の教えられて黙祷を捧げているのでしょいうか?
アジアで生活をはじめるようになって初めて認識するようになった日本人としての自分の立ち居地、中国、韓国では小学校から近代史の歴史教育はことのほか熱心で多くの歴史オタクを輩出しています。
そんな中で彼等の発するかっての日本軍占領時代の過剰なネガティブな情報にまどわされることなく、客観的な情報を得ようと日々、研鑽、勉強せねばと思いながらもまた
今年も8月が巡りきて、香港、中国のTVではいつもの日本軍のむごたらしい行為の映像が流されはじめます。
先月読んだ関連本
<あの戦争は何だったのか>保坂正康 新潮新書
<僕の見た「大日本帝国」>西牟田 靖 情報センター出版局
<中国はなぜ「反日」になったか>清水美和 文春新書
<憲法九条を世界遺産に> 太田光 中沢新一 集英社新書
<国の理想と憲法> 野村昇平 七ッ森書店
そして僕の青春グラフィティを彷彿させてくれた人生読本
<バンカー.そして神父> 谷口 幸紀 亜紀書房
梅雨入りの紫陽花咲き零れる6月の東京でつかの間,滞在しています。
帰国便、香港ー成田間のANAの機内で観たインフライトムービーは<それでもボクはやってない>機内誌によれば
『Shall We ダンス?』の周防正行監督が、11年ぶりにメガホンを取った本格的な社会派ドラマ。
満員電車で痴漢に間違えられた青年が、“裁判”で自分の無実を訴えながらも有罪となってしまうという日本の裁判制度の問題点を浮き彫りにした作品
こんな不条理なことが現実にあるのかなと水割りをぐびぐびやりながら観ていました。
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過日家人と新宿から乗った小田急線、折りしも夕方のラッシュアワーと重なり、久々に経験するスシ詰め満員電車、
携帯か何かをバッグから取り出そうとごそごそやっている家人に、ワンレンのOLが振り向きざまに
「さっきから手があたるんですけど!」とはきすてるような思いもよらぬセリフに家人も仰天・・・
思わず映画のシーンを思い出してしましまうような光景、これがもし、僕が真後ろにいて痴漢呼ばわりされたら思うとぞっとしました。
発展途上国で1日に数本しか電車が通らないアフリカやアジアの国ならともかく、世界の経済大国日本で首都圏のこのスシ詰めのラッシュアワーの
状況はどう見ても異常。律儀にも3分おきにキチンと次から次へやってくるい電車に後ろから押されながらギュウギュウに詰め込まれての出勤は家畜並(?)
こんな中で、期せずして廻りの女性のどこかお気に召さぬ個所に接触したからといって痴漢よばわりされてはいい迷惑、
疑われぬように両手を挙げて乗ったらといわれても数分間ならともかく拷問のようにいつまでも万歳ポーズをやり通せるものではないでしょ。
かって香港から日本へ出張で連れて帰った香港人の女性スタッフはこのラッシュの状況に驚愕しどうしても乗車を拒否し、やむなくタクシーで移動したこともありました。
友人のN氏は娘さんと一緒に乗った満員電車内での内輪話しの最中、何気なく肩においた手に愛娘から「さわらないでよ!」と一喝され、周囲からの刺すような視線に背筋が凍りついたとか・・・・これってかよわいお父たちへの逆セクハラと違いますか・・?
こんなおぞましい状況をハイヤー通勤のエライ役人や政治家に判るわけもなく、団塊の世代が定年で通勤しなくなる自然減によるラッシュ緩和を待たねばならないのでしょうか?
このラッシュ通勤のお陰で日本人は足腰が鍛えられ平均寿命が延びたなどというトンチンカンな説もありますが、
アジアでの職住接近の生活に慣れきってしまった身には、帰国時に経験する首都圏でのラッシュアワーの乗車は、いつ人生を踏み外す冤罪に巻きこまれないとも限らず、この上なくスリリングで体力消耗する苦行の他の何物でもありません。
電車内での2度目の冤罪(?)と闘っているミラーマン 植草一秀先生は今はいかにおわしますのでしょうか?
久々の東京での休日の昨日は長い一日でした。
兼ねてから日本帰国の際は参加したかった現役の上智大生 荒川祐二さんが行っている毎朝新宿東口広場での清掃に表敬訪問を兼ねた参加のため家人と朝5時20分の始発に乗り、現地6時着、すでに輪がひろがった大勢のボランティアの人たちによって清掃は始まっていました。
周囲は三白眼のうつろな目をした朝帰りのバカ者たちが大勢行き交い、その間を縫ってのごみ拾い、ペットボトル、空き缶、空き瓶、煙草の吸殻、その他得体の知れないごみなどいったんポリ袋に拾い集めた後、シートに拡げての分別、ペットボトルの紙はがし、みんな手馴れた要領で大ポリ袋10袋のごみ回収作業は7時前に完了、 早朝から案内いただいたYさんに感謝
まさに捨てるカミあれば拾うカミあり・・
背中に<一緒に掃除をしてくださる人ぼしゅう >のゼッケンをつけた荒川さんをはしかにかからずこれからも頑張ってねと激励し、再会を約して半睡状態の客でいっぱいのMACでコーヒーを飲んで四谷へ
早朝から案内いただいたYさんに感謝
7時30分からのイグナチオ教会のミサにあずかり家内安全、商売繁盛、武運長久、世界平和等々・・・・を祈願し、銀座へ直行、
丸の内ピカデリー10時10分からの映画<東京タワー>鑑賞、シニア夫婦割引二人で2000円、樹木希林の迫真の演技に周囲はすすり泣き、

軽く直久でラーメン餃子の昼食後13:30日本橋三越前、お江戸日本橋亭で開催の三遊亭とん馬(1982年上智大学スペイン語学科卒)の独演会で伝統の話芸を2時間半たっぷり堪能、落語は奥が深い・・・

17時地下鉄で外苑前へ移動し、大戸屋で早夕食をとり、ビールを買い込み、T氏からいただいた阪神ーヤクルト戦チケットをもって神宮球場へ、選手の息使いも聞こえそうなネット裏の最高の座席、試合は今年最高(?)の阪神の勝ちっぷり、虎ファンいっぱいの半甲子園化した神宮球場に響き渡る六甲颪しのなか、長い1日を終え、家路に着きました。
神奈川県で不登校の子供たちを集めて不耕農法で農業をしている友人のOさんは毎年11月チェンマイ郊外にプーディン村へ稲刈りの手伝いに来てくれています、昨年も長女のYちゃんとスタッフのHちゃんも伴って村でのホームステイを兼ねて手伝いに来てくれました。(詳しくはBLOG 12月3日号をご参照)Yちゃんがそのときすでに妊娠していたとは、その後知ることになり、皆ビックリ、今朝、OさんよりYちゃん無事出産を知らせる感動的な出産記が届きましたので転記させていただきます。
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大家族の新しい仲間はゼロ歳!
人生は不連続。これは私が今まで生きてきて痛感していることのひとつです。自分自身の人生がまさに不連続線で今日まで来ているし、世の中を見ていてもそう感じることが非常に多いです。世間では人生は連続していると思っています。連続=安定と考えています。だから、連続線が切れそうになったり、切れてしまったりすると、多くの人はどうしていいか分からなくなってしまいます。でも、事実はむしろ不連続のことのほうが多く、だから不連続を前提にして生きていけば、結構困難に出くわしても何とかなってしまうものです。
さて、小川家の今回の不連続線は19歳の長女Yの足元に引かれました。昨年8月、気が付いたらどうも妊娠しているらしいということになって、それから急にどたばたして、Y自身も一時期は揺れに揺れましたが、次第に『産んで育てる』という気持ちになって新年を迎えました。最近は横文字で格好いい言い方がありますね。シングルマザーというやつです。私は妊娠の時以来娘の心境の大きな揺れと揺れ戻しを間近に見て、その変化を見てきて、むしろ自分の妻のときよりも一人の女性が母親になっていく過程がよく分かりました。つまり望まなかった妊娠の思いを乗り越えて、わが子への愛を育むようになっていく過程で起こった心の成熟していく姿を見ていて、親として複雑な思いではあるものの、これは必要があって起こっていることなのだろうと思えるようになりました。
とにかく、我が家族は総力でYを支えることですっと心が一つになりました。そうして迎えた出産の日はおじいちゃんになる私にとっても大変感動的な、記念すべき日になりました。
今回の出産立会いは6回目で、毎回それぞれ思い入れがあるのですが、事が事だけに、今回は私も半分父親のような気持ちで立ち会いました。
全く想像だにしていなかったのですが、赤ちゃんは次女Mと三女Sと私のにわかコーラス隊の歌を聞きながら誕生しました。陣痛の強い時は壁に貼ってある赤い鳥の『翼をください』から「こ・の・お・お・ぞ・ら・へーつ・ば・さー ひ・ろ・げー、飛・ん・でー
ゆきたーいよーーー。か・な・し・み・の、な・い、
じ・ゆ・う・な そら・へー、 つ・ば・さー は・た・めーかーせーーー、行きたいーーー。」を繰り返すんです。これは熟練した助産婦さんの指定。妊婦の思いと力の加え方にぴたりあう曲なのでしょうか。助産婦さんも一緒に歌い、絶妙な言葉がけでYを安心させ、自然な出産へと導きます。力まないように、でも、力を込めて由里恵も歌いました。何十回歌ったか分からないくらいたくさん歌いました。陣痛のないときは静かに「今―私のーねがーいごとがーか・な・う・なーら・ばー、つ・ば・さ・がーほ・しーいー。」と全曲を歌います。他の曲や、Yの好きな曲も歌いました。そして、最終コーナーを回って、もう赤ちゃんが出てくるに任せるまでに至ったときは、私の思いつきでユーミンの『春よ来い』。助産婦さんの指示で「は・る・よー、まだ見ぬ は・る。まぶたー閉じればそこにー、愛をーくれし君の、懐かーしき 声がするーー」をこれまた何十回繰り返したでしょうか。そうしたら、とうとう愛をくれし君がすーっと出てきましたよ。水中出産で。そして、「うぎゃー」と懐かしき声で泣きました!
<ああ、初めての出会いじゃなかったんだなあ>かつてどこかで出会い、そしてまたここで再び見えたんですね。何回も何回も頭を出しては引っ込めて、最後は赤ちゃんがお母さんと呼吸があったときに自分から出てくるんだということがよく分かりました。自然分娩という言葉の意味が実感として分かりました。その子の体重は3050g。初めからぐいぐいおっぱいを吸う逞しい子です。
「Yちゃん、おめでとう!Yちゃん、おめでとう!」 「わー、ちいさーい。かわいーい。」
MやSも大感激して、大興奮。深夜2時だというのに帰りたがりません。もちろん妻も5人の子を産んだ経験者として終始そばに付き添い、その新しい命の誕生に大感激。 私は慎重派。目が二つ、耳が二つ、口が一つと、体の各部分がまともであることを点検して、五体満足な赤ちゃんが生まれたことを確認してから、喜びの声をあげました。
出産から6日後、Yは新しい小さな小さな仲間を連れて母子共に元気な姿で家に帰ってきました。みんなから溢れんばかりに一杯の祝福を受けて、みんな同じ思いになりました。
産んでよかった! 生まれてよかった!
今回の3日間だけの香港滞在期間中、どうしても行っておかなければいけない店があり、会っておかなければならない人がいました。
日本料理店「利休」、香港の駐在員でこの店を知らなければモグリとまで言わさしめた名物日本料理店オーナーの島田さんは御歳72歳の関学OBとしても香港駐在日本人としても最長老のお一人。
その「利休」が2月17日旧正月までで17年間の歴史の幕を引き、島田さんご夫妻は故郷兵庫県に帰国されると昨年末お聞きしていたので、明日から3週間の南の国へ旅発つ僕としては最後の伝説の店「利休」での食事をと、今日昼食を兼ねてご挨拶にうかがいました。(香港駐在20年の僕も開店以来お世話になった店)
「利休」の開店は1990年、それまで香港駐在の経験のない島田さんは日本でのサラリーマン生活を早期退職され、55歳で単身香港へ渡来、駐在している土地勘のある人間ならばまず出店しない日本人の立ち寄らない天后の倉庫街に日本料理「利休」を開店、案の定開店数ヶ月は閑古鳥が飛び回り、見るに見かねた奥様が日本からかけつけメニューからサービスすべてをを洗いなおしてのマイナスからの再スタート、そして苦節1年、ご夫妻が昼夕いつも、自ら店内に立っての家庭的なサービス、奥さん指導の繊細なおふくろの味付けが話題を呼び、そのうわさは口コミで拡がり、金融マン,商社マンは3駅向こうのセントラルから、航空会社の日本人キャビンアテンダントたちは海峡を渡った九龍から車を飛ばしてまで駆けつけ、数年後には予約なしでは席につけない超繁盛店になり、利休の近所には次々と日本レストランが開店し日本食街になっていきました。
いつも満席の店内で駐在員たちは異国での懐かしい日本の料理をほおばり、酒をあおり、あるときは香港ドリームを熱く語り、あるときは大陸での挫折に涙し、多くの友人同僚の歓迎会、そして送別会もこの店で行ってきました。
この17年間、香港はめまぐるしく揺れ動きました。中国返還、通貨危機、鳥インフルエンザ、そしてサーズ騒動、サーズ騒動の期間、家族を日本へ一時帰国させた単身駐在員で利休は連日超満員となり、利休のおふくろの味は単身駐在員の胃袋を支え続けました。
今回市街地の再開発のためのビルの立ち退きとなり「利休」は香港駐在の日本人のみならず、多くの香港人、欧米人に惜しまれ、客一人一人の思い出のシーンを残して閉店していくことになります。
今日も島田さんはフロアで奥様は厨房で忙しくされていました。
僕の最後のオーダーのメニューは迷わず「利休」名物,世界一美味ともいわれているカレーうどん、その昔若かりし頃は大盛りのカレーうどんを食べた後、残ったスープに大盛りのライスを注文してカレーライスとして<一品で2度美味しいと言いながら>食べていましたが・・・(あのときは若かったなぁ・・)
レジ近くに座り、島田さんと昔話をしながら感慨深く、ゆっくりと味わいながらく最後のカレーうどんを汁まで完食し、島田さんと記念撮影、またいつの日かいずこの国かでの再会を約束して、お互い目頭を熱くして硬い握手で店を後にしました。
時は流れ、人は去り、またひとつ香港の日本人社会の歴史と記憶に残る店の灯がまもなく消えて行きます。
不登校や引きこもりの子供たちを自宅に合宿させ、自分の子供たちと不耕農業や大工作業をしながら共同生活している五色塾の主宰者 小川さんから日本出張期間中、時間があれば塾へ来て子供たちにアジアの話をしてもらえないかとの熱いリクエストにお応えして、日本滞在最後の夜、相模原の五色塾におうかがいして車座になって子供たちや、ボランティアの人たちとのアジアの生活やプーディン村紹介の懇談会に妻と二人で参加させていただきました。
子供たちは目をきらきら輝かせながら、まだ見ぬアジアの話しに聞き入って、子供ならではの発想の思いもよらぬ質問も飛び出してこちらもあたふたしてしまうような新鮮な驚きがありました。
懇談会の後、その日スイスからの里帰りから帰国したばかりのいブリギッタ小川夫人の心のこもった手料理を10数人が一斉においしくお頂き、山盛りの料理も食べ盛りの子供たちの前では気持ちがいいほどまたたくまになくなってしましました。どの国でも大勢でわいわい談笑しながらの食事はやはり最高の至福の時ですね
食事の後、小川さんのお嬢様たちのピアノでベートーベンの演奏、ブリギッタ夫人がスイスから持参のライアを塾生のふゆみちゃんが<千と千尋のテーマ曲>を演奏し、どんな豪華なコンサートホールの演奏よりも心の琴線に響く日本での最後の晩餐を経験させていただき、子供たちとも次回はチェンマイでの再会を約して五色塾を後にしました。
今の日本の偏差値教育で落ちこぼしている大事なものをひとつひとつ拾い集めて大切している五色塾での奥深い感動を胸に家路を急ぎました。
小川さんから帰り際に手土産にといただいた子供たちと作った自家製のカリフラワーを早速翌日いただいたところ、今まで味わったことない大地の甘さあふれる美味しさでした。
今回の日本出張のメインの目的であったビッグサイトでの4日間の宝飾展を無事終え、心身ともにほっとしているところです。
チェンマイ郊外プーディン村の工房で制作した天然石とシルバーのアクセサリーのセールスマンとして今回初めて東京での展示会への出展までこぎつけました、知人、友人の皆様+家族総動員の協力お陰で昨年の神戸につぎ、東京でもまた多くのバイヤーとめぐりあうことができました。
日本最大の宝飾展だけあって国内外から多くのバイヤーの来場があり、連日(僕に余りなじみのない)長澤まさみ、速水もこみち、幸田来未等など数多くのタレントも動員してのイベントもあり、さすが花の東京のビッグショー、アジアの田舎物にはまばゆいばかりで、久々にネクタイをしめての立ちっぱなしで腰も足パンパンになりながらも30年前のデパートマン時代の初心を思い出し、リフレッシュした気持ちでの毎日でした。
村のおばちゃんたちが丹念に手作りしたアクセサリーは多くのバイヤーから高い評価をうけることができこれを機会に日本での市場を拡大しアクセサリー生産を通じての村おこしのプロジェクトを一歩ずつ推進できそうです。
今回の日本滞在は個人的な事情もあり、寒い日本で異例の長逗留となり風邪気味のままずっとやってきましたが
やっと明日、旧正月前、喧騒の暖かい香港へ帰国できます。
今回の日本出張中、お世話いただいた皆様、展示会にご来場いただきました皆様にはこの場を借りて、あらためて厚く御礼申し上げます。お陰様で心に残る日本滞在となりました。
大震災から12年経った鎮魂の神戸にいます。
毎日まったく殺伐とするニュースばかりの日本ですね。その事件をマスコミがよってたかって2重3重に増長して伝えてTVのバカコメンテーターがありきたりのコメントをのたまっているのを観ていてもまったくウンザリしてしまいます。
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年に3-4回、それも1週間ー10日の短期間の日本での一時帰国の期間に信じられない不思議なことがよくおこります。
7年前、小学校時代の一時期をすごした広島の段原の街、住居、小学校を40数年ぶりに見たいと思いたち、当時住金広島支店勤務の白井兄(現在住金中国江陰勤務)を訪ね1泊で広島に赴き、そのまま夕食を兼ねて夜のネオン街へくりだし、いつものように2軒、3軒ハシゴの末、案内された店のカウンター越しに立った女の子、しおりちゃんとしばし広島談義、何の気なしに聞いた彼女の姓が<的場>、住んでるのは<段原>、ふとよぎったのがその昔よく家に遊びに来ていた妹の仲良しだった女の子の名前が確か<的場>、まさかと思いながらお母さんの歳を聞いたところ何と妹と同じ歳ビックリして何とかお母さんに確認してくれないかと依頼しましたがあいにくパートの工場での夜勤のため連絡とれず、次に叔父さんにTELしたところまさしく本人、兄弟でよく段原の我が家に遊びに来ていたとのこと・・・
翌日、奇縁のしおりちゃんの案内で白井兄の運転ですっかり変貌してしまった段原の街、昔のままの段原小学校への感慨深い故郷再訪センチメンタル ジャーニーを果しました。
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そして先週、帰国の度に集まってくれる高校時代の同期、今回のメンバーのIT安井兄、植田外科医、井上弁護士、鈴木校長たちと大阪北の絶品の焼き鳥、焼酎で異業種懇談、日本の教育論から昔の彼女まで話題彷彿すっかりいい気分になった後、2次会は安井兄の事前の配慮で同じ歳の美人ママのなじみの店を週末休みにもかかわらず開けてもらっているということで、そのまま全員流れて、しばし飲み続けているうちに、大阪の出生地の話からママから出てきた地名にビックリ、此花区春日出町そして此花幼稚園、それはまさしく僕が広島へ行く前に3歳から5歳まで3年間過ごした町そして幼稚園、おまけに同じ歳 まさか、まさかのでてくる話題すべてに50数年前の記憶が酔った頭の奥から蘇って来て、思わず椅子からずり落ちそうになりました。
ママの想い出のひとつにひな祭りのときの学芸会での三人官女を演じたこととか、そういえば僕も五人囃子で出ていた我が家に写真があったような・・・
その夜、深夜、実家に帰宅し早速押入れから古いアルバムを引っ張り出し、見つけたのがセピア色の此花幼稚園時代のひな祭りの画像
五人囃子の一番左のふくよかな、いかにも品のある(?)男の子がご幼少のみぎりの僕ちゃん、それではママは上段の3人のうちのひとり??
週末をこのシンンジラレナイ 偶然に驚きながら過ごし、一昨日、北で友人、田中氏、島田氏と集まる機会があり、夕食後、両氏にも事情を話し再びくだんのママ(塗野友子さん)の店<LIVERTY HOUSE 大阪市北区西天満4-11-8 武智産業ビル 1F TEL06-63632618)へ写真を持って直行、早速、周りの客の迷惑顧みず写真を取り出し、ママも思わず老眼鏡を取り出して一発確認 <真ん中が間違いなく私です>
海外ならばこの感激、二人はハグしてキスの1,2発はかますところでしょうが、ここは日本、隣の友人たちから<欧米か???>と冷やかされかねないので熱い握手でとどめておきましたが・・・
そして証拠写真もいっしょに52年ぶりの記念撮影
この面通しの事実を先週同行していた友人たちにメール連絡したところ、「中国残留孤児の家族との再会のようなドラマ」 とは井上弁護士からの返信
島田氏からは「1億3000万人の中から52年ぶりに偶然再会するという奇跡的な場面に立ち会うことができたこともうれしい出来事でした。」
2度あることは3度・・神は今度はどのような再会のドラマを演出してくださるのでしょうか・・・?
タイ、プーディン村の工房で制作したアクセサリーを24日から東京宝飾展に出展するため日本に帰国しています。
今年は暖冬とのことですが、長年南国生活で開ききった毛穴から入り込む寒さが毎日、身に沁みます。
先日、東京からの神戸への移動の新幹線から久々に荘厳な富士山を見ることができ、今年は春から縁起がいいかなとひとり思っています。
昨日週末の故郷神戸のそぞろ歩きの途中、三宮地下街(サンチカ)のイベント広場の一隅で即売会をしていた山口善生さんという32歳の若き陶芸家の作品に足が止まりました。
どの国でも興味ある人物とは誰とでもすぐに話したがるのが僕の性、早速山口さんご自身としばし立ち話、山口さんは金沢の出身、実家の家業は大工、地元星稜大学卒業後、自然豊かな自宅敷地に穴窯(山法師窯)をかまえ独学で陶芸を始めたとのこと
その手法は焼締(やきしめ)という昔ながらの薪を焼く方法で、窯を焚くこと自体が数日に及ぶ重労働でさながら祭りごとをおこなう行者ような荘厳な作業となるとのこと、ゆう薬をいっさい使わず、そこから生まれる作品は高熱の炎と薪(赤松)の樹木の精が創りだす神聖な色彩、紋様を宿し作品の一点一点が自然が織り成す神秘的な表情を持ち不思議な存在感があります。
陶歴を拝見すると山口さんは地元金沢では今まで数々の賞を受賞している鬼才の新進陶芸家、早速いつものあつかましさで3月9日ー11日銀座6丁目の岩崎眼鏡店サロンで開催予定のアンコールワット修復基金バザールへの出品を依頼し、二つ返事で快諾してもらいました。
山口さんにとってもはじめての東京出展とのこと今から花の東京のど真ん中での反響が楽しみです
新春からすばらしいクリエーターにめぐり合うことができ、今年は本当に縁起がいいかも・・?
その昔(僕が百貨店マンであったころ)正月3日間はほとんどの商業施設は休業していて繁華街も静まり返っていたはずなのに10数年ぶりに出かけた2日の新宿の街はデパートもレストランも開業し初売りで大賑わいでした。人ごみの中をかきぬけて、友人推薦の<武士の一分>を観て不覚にも涙しました。(今回香港からの帰国便の中で見た常磐ハワイアンセンターを舞台にした<フラ ガール>を観たときも機内で涙が止まりませんでしたが・・・すっかり涙もろくなってしまったのも年のせいですね)
山田洋次監督の宣言通り、新たなキムタク像を見ることができましたが、脇を固める笹野高史、桃井かおり、小林稔侍、坂東三津五郎、緒方拳らバイプレイヤーの燻し銀のような演技が光り物語を味わい深いものにしていました。寅さんシリーズ同様、山田監督のキャスティングの妙ですね。
この作品も<たそがれ清兵衛><隠し剣 鬼の爪>同様、国内外の映画祭でも間違いなく高く評価される作品となることでしょう。
作品のテーマである<武士の一分>、昨年のベストセラー<国家の品格>にも共通する古くて新しい武士道の心に国民が共感し、混迷する日本国の指針として求められているような気がするのですが・・・
20何年ぶりに東京新宿高層ビル群の一角のホテルで新年を迎えました。
「明けましておめでとうございます。今年もアジアの空の下で出会ったチョットいい話をお伝えしていきたいと思います」というメッセージを準備していたところに、飛び込んできたのが2日前にいたバンコクでの昨夜の連続爆破のニュース、それも1個所は10日前日本からの友人たちと宿泊したセントラルプラザ エリア、数年前のバリのテロに続き、また惨事からすり抜けたような滑り込みセーフ。
昨年のクーデター以降の戒厳令下、正常化宣言を直前にして首都バンコク中心部でのこの惨事は観光立国タイにとっては政局同様大きな痛手になり今後のこの混迷はしばらく後をひきそうです。
今年こそは、このブログでも平和で明るい話題満載できるようなアジアであってほしいとひっそり静まり返った新宿副都心のホテルの一室で祈念しています。
香港の我がオフィスは20年来、香港島随一の繁華街 銅鑼湾(コーズウェイベイ)の築50年の前時代的蛇腹式シンドラー製エレベーターのマンションビルの中にあります。
付近には百貨店、ショッピングセンター、市場、ブテック、映画館、レストラン、カラオケ、ホテルなどなどが半径500mにひしめきあうように集合し、まるで歌舞伎町か心斎橋のど真ん中にあるような感じ、
朝早くから夜中遅くまでどこからともなく湧いてくるうねりのような人波がとだえることはありません
その中で最近目立って増えているのが日本レストラン、居酒屋、すし屋、ラーメン屋そしてたこ焼き屋まで・・・・
経営も客もほとんどが香港人、日中の政治の冷え込みとは関係なく食、音楽、芸能、アニメ、ゲームソフトの日流 は確実に香港人の生活に浸透していっています。
しかし、ここ銅鑼湾の商業施設の家賃は世界でNO3の高さだとか(NO1マンハッタン、NO2シャンゼリゼ)
それだけに、多くのテナントは家賃との戦いに破れ、撤退、夜逃げで入れ替わりも激しく、儲かってるのはデベロッパーと内装業者だけといういびつな状況が続いています。
弊社が商品をお世話させてもらっているHIKOSEN CARA店 >も今まで香港三越の中にありましたがビル全体の改修にともない香港三越は9月で撤退し、急遽物件を物色し入居したのが銅鑼湾のど真ん中にあるCAUSEWAY PALAZA 1の1F(日本での2階)3坪のうなぎの寝床のようなスペースで家賃が月40,000香港ドル(60万円)、他の国の人が聞けば卒倒しそうな価格。
それでも背に腹は代えられず、先月何とか新装開店・・・これからクリスマス、旧正月の最大の商戦、世界NO3の高家賃の壁に向っての熱く厳しい挑戦の日々が続きそうです。
短い秋が足早に長い冬に変色していく阿寒湖畔の商店街にある木彫りの店、<湖畔屋>のオーナー星輝一さんが彫る、アイヌの食べ物の神様<アマン カムイ>
そのほのぼのとした笑顔は星さんのお顔そのもの、自分が幸せを感じるときにのみ、木彫りの目を入れるとか、日本商工会議所会頭賞など数々の賞を受賞している民芸品、購入したお客様の名前と日付けも木彫りの足に彫ってくれ、お馴染み熊の木彫りとは一味違った、ご利益たっぷり、癒し感いっぱいになる逸品です。
6月、先の日本帰国の際、高校時代からの友人、T氏に案内されて訪れたのが
神戸三宮から車で北へ20分、再度山の奥にある外国人墓地、甲子園