
所用が重なり1か月間、大阪、神戸、京都、甲府、横浜、東京を廻り、
なつかしの再会とときめきの出会いを数々重ね、香港、バンコクに数泊し、
5日前にチェンマイに戻り来て,こちらで越年の予定です。
この間、タイでは旧ソムチャイ政権は反対派の空港占拠という暴挙、政権違憲判決の末
あえなく崩壊、観光客も激減し、折からの世界金融恐慌の影響も重なりタイの経済も
垂直降下中。
この非常事態に彗星のように登場し、超連立政権によって首相に選出されたのが
アピシット・ウェーチャチーワ(44)ご覧のとおりの容姿端麗、イギリス生まれ、両親は医者、
オックスフォード経済学部を首席で卒業し大学教授から政治家に転身、
早くから次期の指導者と目されていた期待の新星。
首相に選出されると早速国内の対立を治めるべく、反対勢力タクシンの故郷チェンマイに
単身乗り込み開発会議に出席したり、長らく反タクシン派に占拠されていた首相府の清掃に
自ら参加したりの若さに任せての行動力を発揮し、発足した内閣も国王殿下から
「国民和解のため皆で協力して一生懸命働いてください」とのお言葉をいただき、
長らく続いてきた政局の混乱もこれで一段落・・・? すればいいのですが・・

面食いの女性とおかまの支持を得てかアピシット内閣支持率は60%と急上昇
また最近行われたタイらしい世論調査では政権交代後の幸福度調査、10月48.4%が
今月65.5%と大幅UP↑
さらに79.7%が交代後、多少よく眠れるようになった、ないしは熟睡できるようになったと
この1年で最高のポイントとのことでタイ国民に安眠(?)をもたらしているとのこと・・・
日本の皆さまは現在の混迷する日本政局を思い、安らかにお眠りになられていますでしょうか?
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仏教国タイのチェンマイでもショッピングセンターはクリスマスの装飾で彩られ、
今夜の教会での深夜ミサには多くの人が集い、街の夜空に歓びの鐘が鳴り響きます。


それでは、南国のチェンマイより MERRY MERRY CHRISTMAS !
探し物が2,3あり、チェンマイから北へ250km、メコン河のほとりへいつもの3人ででかけました。
タイの正面玄関がバンコク、スワナブン空港ならば、このメコン河畔の、チェンセン、
ゴールデントライアングル、メイサイは裏玄関、勝手口になり、古くより北の中国、ラオス、
ミャンマーから合法、非合法のモノ、ヒト、カネ、ヤク・・がこの国境線よりタイ国内に
流入し続けています。最近では北朝鮮からの多くの脱北者も中国大陸を縦断し、メコンをくだって
チェンセンからタイへ侵入してきていると地元紙は伝えています。
昼過ぎにチェンマイを発ったため対岸がラオスの古都チェンセン到着はすでに夕方。
川っぷちには屋台のちゃぶ台が並び早くも宴会は開始されていて、
はしけでは苦力たちが停泊している数隻の中国船から満載の貨物を降ろしていました。

茜色に染まるメコン河畔の道を走りながら見つけた、2年前にOPENしたという川辺のホテル
LE RIVERに飛び込みで宿泊することにして、チェックイン後、早速すでに闇に包まれた
ホテルの川べり食堂で香辛料いっぱいのタイ料理+タイビールで乾杯、眼下にははるかチベット高原から
幾千キロ流れ来しメコンの流れ、上流の大雨のため満々と水をたたえ大蛇のように静かにうねるように
流れ行く大河。
数千年変わらずの悠久の時空を流れる大河を前にその一適にも満たない宇宙の藻屑のような我が人生の儚さを
今更ながら瞑想させられる世界でした。
レストランの照明には幾多の虫が集まり来て、静粛な大自然の中の夕食を終え、
ビールの酔いもあり、部屋のTV番組の言葉も判らず、早々と就寝。
夜中、トッケイの鳴き声で目をさまし、ベランダにでると漆黒の世界、仰ぎ見ると言葉を失うような
満天の降るような星空に眠気も一気に吹っ飛ぶ。
デジカメを夜景モードにしてシャッターを押し続けましたが、僕の技術では撮影不可能。
星降る画像は脳裏のSDカードにしっかりとFileしておくことに・・・

メコンの夜明けは6時過ぎから刻々と空と川面の織りなす色彩が万華鏡のように変化するなか、
昨夜の川床ホテル食堂で渡りくる河風を受けながらの快感朝食。
部屋数20室、この至極のホテルのお値段、1部屋朝食2人分込で1泊1600バーツ(円高還元 4500円)
朝日を浴びながらの朝食後3人はミャンマー国境の町メイサイを経由し探し物の旅へでかけました。

タイ北部の町、チェンライ郊外の突然現れる白亜の寺院 ワット ロン クーン、タイの著名画家 1955年
生まれのチャルーンチャイ・ コーシピパット氏が生まれ故郷に自身がデザインして1998年から建築してい
るびっくりデザイン、新コンセプト寺院、当初は10年後の今年2008年には完成予定のはずが、昨日訪ね
ても建築未だ半ば、あと10年はかかりそうねサクラダ ファミリア状態、北部タイでは氏の人気は大変な
もので各所で彼の絵画に出会う。
また氏のデザインの建造物も多く、近年ゴールデントライアングル、メコン河畔に建造された黄金の大仏
像も今や当地の新ランドマークとなり、多くの観光客が訪れ、礼拝、写真撮影スポットになっていました。
タイの首都バンコクと北の都チェンマイのほぼ中央に位置し、どちらからも350kmの
スコタイ(意味は幸福の夜明け)はユネスコ世界遺産指定の遺跡の町、
アンコールワットのクメール文明とアユタヤ文明の狭間の200年間(13~14世紀)
燦然と輝く仏教文化がこの地に花開いたことがしのばれます。
スタッフの慰労も兼ね皆でスコタイ1泊旅行に行ってきました。
鮮やかな常緑樹と水濠に囲まれた静寂の世界、
そこには悠久の時を越えた200以上の石と煉瓦の重厚な仏教遺跡が
朝、昼、夕表情を変えながら今も訪れる人の心に時空間を越えて歴史のメッセージを語りかけてくれます。
この世界遺産へは内外から多くの賓客を迎え、タイを代表する観光スポットとなっています。
我々の宿泊したホテルは史跡の近く伝統あるパイリン ホテル、1部屋1泊 税込朝食付きで
1200バーツ(4000円)。
恐れ多くも日本国天皇皇后両陛下も1991年スコタイご来光の際、お泊りになられたとかで
ホテル1階正面にはそのときの写真が大きく掲示されていました。
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タイの車での旅の楽しみは街道筋に並ぶ産地直売の売店、その地の季節の旬の産物を道路沿いの
屋台に並べ鮮度100%の産物を格安の価格で販売しています。
果物、野菜などに混じってその土地の養蜂家が販売する100%天然の蜂蜜はトロピカルフルーツ、
トロピカルフラワーの濃厚な蜜の味で人気のある産物。
特に5月の花卉から収集される蜂蜜は恋よりも甘いというタイ歌謡曲にも歌われるごとく大人気商品で
今の季節、各村の露店にはウィスキーの空きビンにつめて店頭に並んでいます。
その甘さは芳醇にしてまろやか、熱帯雨林からの純度100%の天然エキス。
昨日もランパン街道沿いの店に並んでいる蜂蜜のびんを発見、「天然100%★5月採集」とおばちゃんはいう。
値段を聞くと通常1本200~300バーツ(650~1000円)なのになんと100バーツ(330円)!
思わず「3本買うから安くして!」と大阪商人の口ぐせ、ダメ元で聞いてみると
おばちゃん曰く「これ以上安くならないよ・・最近砂糖も値上がりしてるからね・・」
「 ・・・・???! 」
「おばちゃん、なんで砂糖やねん、 ・・??!」
楽しかるべきタイでの正月も2日国王の姉君のガラヤニ王女がご逝去されたため正月の華美なイルミネーションは取り外され街は一夜にしてBLACK THAILANDになってしまいました。この日から王室は100日間、政府機関は一切の祝賀行事を中止し15日間喪に服し、半旗をかかげ政府職員は黒い服を着用との閣議決定がなされました。
これにならって強制ではないものの王室崇拝するタイ国民の多くの人たち今までの黄色から黒の衣装を着用し、TVのキャスターも皆、黒服でニュースを流し、番組の合間合間にガラヤニ王女の幼少のころからヨーロッパ留学を経て(スイスローザンヌ大学で化学の博士号取得)タイへ帰国後、国民への教育、医療、福祉での貢献の人生の映像を繰り返し流しています。
とりわけ少数民族や貧困にあえぐ農民、津波の被害者などの弱者にたいしての思いやりの活動は国民から深い感謝と尊敬を得られていたようです。
津波被害を受けた村へ見舞いにヘリコプターで訪れた王女を村人たちひざまずいて合掌しながら王女を仰ぎ見て取り囲んで話しを聴き、そしてひれ伏す映像を観て外国人の僕にはまるで王女が生き神さまのようにも思えました。
昨日曜日のチェンマイのカトリック教会のミサの前にも十字架の祭壇に並んで設けられた王女の弔問祭壇の前で司祭の先導で信者たちがそろって王女のためにタイ語でアベマリア(天使祝詞)の祈りを10回(僕たちは日本語の古いバージョンでいっしょに)唱え、ガラヤニ王女が仏教国タイでも宗教を超えた偉大な存在であったことが判りました。
国王、王女の母上であるシーナカリン王母も同じく国民を援助するため数々の財団を設立され活動し、やはり国民に絶大の人気のあった方で(とりわけ北部の少数山岳民族の麻薬撲滅にも尽力され彼等に野菜栽培を奨励、促進されました)、王母のご存命中は頻繁にガラヤニ王女もごいっしょに国の僻地の村々に出かけてられ医療、教育の向上に尽力されていました。
バンコクポストによれば1995年その国民に敬愛されていたシーナカリン王母が亡くなられた年、国民が憔悴してしまい、消費は落ち込み経済は停滞してしまったとか王室は今回の王女の死が国民経済に悪影響を与えない為にも喪中であっても国民生活を規制しないよう望んでいるとか・・
プミポン国王殿下のご長命とガラヤニ王女殿下のご冥福を心からお祈りいたします。
バンコクから西に130km車で2時間、ミャンマー国境に近い町、カンチャナブリ。この街の最大の観光スポットは映画<戦場にかける橋>の舞台となっったあの橋。第2次大戦中、日本軍がこの地で連合軍の捕虜とタイ人を多数徴用して建設したタイ、ミャンマーを結ぶ泰緬鉄道のクウェイ川にかかる日本軍名<メクロン川永久橋>
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そして日本軍の奴隷のような残忍な扱いで犠牲になった連合軍捕虜を弔っている慰霊墓地。パールハーバー、南京戦争博物館同様、日本人としてはあまり居心地にいい場所ではないこの地に多くの西洋人たちがバンコクからのオプショナルツアーで観光バスを連ねて訪れています。
鉄橋に隣接したJEATH戦争博物館には当時泰緬鉄道でビルマ、インドまで戦時物資を運んだ日本軍の機関車とか残忍な扱いを受けて鉄橋建設のため過酷な労働を強いられている連合軍捕虜の蝋人形がかなりリアルに展示されています。
そして映画のクライマックスとなったあのシーン。インパール作戦に勝利した連合軍は日本軍の息の根を止めるべく本軍の輸送ルート泰緬鉄道の爆破を開始し、その重要目標としたのがクワイ川鉄橋爆破、事前にその情報を得た日本軍は連合軍捕虜たちを鉄橋の上に人間の盾として並ばせ戦闘機に手を振らせ、何とか連合軍パイロットに気付かせ、鉄橋爆破を回避させようとしました。
しかし、その期待叶わず、パイロットは人間の盾に気付かず、当初の命令通り、鉄橋を並んでいた捕虜もろとも爆破し捕虜は血まみれになって吹っ飛んでしまうという何とも残忍なシーンが説明パネル、蝋人形とともに再現されていて、これまた日本人としてやりきれない部屋となっています。
鉄橋から少し離れた慰霊墓地には整然と数百の墓石が並び、その日も多くの西洋人観光客が訪れていました。
この捕虜収容所の出来事は西洋人なら誰でも大戦の悲劇(時として今なお根強い反日の原因)として知っている歴史事実だそそうですが、日本の歴史教科書ではどこまで教えられているのでしょうか?
戦争博物館に英語とタイ語で書かれた言葉がいつまでも去り行く肩に背後霊のように重くのしかかってきます。<許そう・・でも忘れない>
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今回このカンチャナブリまでO氏と来た目的は彼が事前に日本で情報を入手した TIGER TEMPLE http://www.tigertemple.org/訪問。
HPによればカンチャナブリから35km離れた峡谷にあるお寺の高僧が傷ついて迷い込んできた1頭の虎を介抱し、
その後20数頭の虎がやってきて居つき、境内は虎のほかにも、牛、馬、いのしし、孔雀などの動物たちがともに群れ遊び、人と動物と自然が融合した、なんだかお釈迦様がいった極楽浄土のようなお寺・・・?
果たしてその実態は・・・ 本当に行きたい方がいらっしゃいましたら、個人的にご連絡ください。
その実情をお知らせします。 この場で明らかにするとあの<虎の穴>の復讐があるかもしれないので・・・
4月11日ー17日ソンクラン(水ぶっかけ祭り)期間の交通事故(主に酔っ払い運転による)の死者は361人(昨年375人)負傷者は4805人(昨年4726人)
と死傷者がでるのが当然のように発表され今年も命がけの祭りも終え、バンコクはいつものむせ返るような暑さと喧騒の街に戻っています。
その体感気温40度もあろうかという暑さの中、我々外国人は外に出ただけで汗が吹き出てくるというのに、タイ人は汗もかかずに平然としているのも不思議なことですが・・
タイのシンクタンクKRCの発表によればタイ国内には現在約660店の日本料理店があり(海外ではアメリカ、中国、韓国、台湾に次ぐ軒数)前年比10~15%の売り上げの伸びを記録しているとか・・・
特に日本人居住区のスクンビット通り一帯とか、大型ショッピングセンターには数多くの日本レストランがあり、日本人のみならずタイ人でいつも賑わっています。
今までは現地滞在の日本人、タイ人経営の店がほとんどでしたが、最近は日本のレストランチェーンも進出し、大戸屋は進出2年にしてすでに11店舗、僕は日本の大戸屋を知りませんでしたが、大戸屋ファンの家人に言わせればメニュー、味は日本と同じ、価格は7掛け、スペースは広く、従業員は多く、サービスもよく、食材も日本以上に美味しいものもありと大好評で益々多店舗化する様相です。
また最近初上陸のモスバーガーも早くも行列ができ、すでに現地で根付いているアメリカ資本のファーストフードとの熾烈な商戦が予想されます。
今一番の話題の日本食店は現地資本<おいしい>の経営する<SHABU SHI>まさにしゃぶしゃぶと寿司のフュージョン店、従来の回転寿司のベルトに寿司としゃぶしゃぶの食材が皿に乗って流れ、各テーブルにはしゃぶしゃぶの鍋が埋め込まれていて、客はしゃぶしゃぶと寿司をいっしょに楽しめるという日本人では思いつかないアイデアがあたり、いつもタイ人客で超満員です。
その昔、タイの日本食といえば米はタイ米で独特の香りが残り、調味料も限定されていてお世辞にも美味しいといえるものではありませんでしたが、昨今、タイ国内で日本米も調味料も日本野菜も生産されるようになり、新鮮な寒流魚貝類を望まなければ日本よりも安く広い座席でゆっくりと、行き届いたタイ人のサービスを受けながら日本食を楽しめるようになってきました。
益々日本食ブームが多様化し過熱していくタイでは日本人にとってゴルフ、マッサージに次いで日本食でもパラダイスになりつつあります。
タイ料理味の3要素は<辛い><甘い><酸っぱい>町の食堂のテーブルには必ず画像のような4つの入れ物がセットになた調味料入れがおいてあり、それぞれナンプラー(魚醤)、唐辛子、砂糖、酢が入っていてタイ人は料理が出てくると味見もせずに、この4つの調味料をスプーンで入れ始めます。
カオトム(おかゆ)、カオパット(チャーハン)、バーミンナム(ラーメン)にもこのナンプラー(魚醤:日本のしょっつる)を入れるとそのナンプラー単体の発酵臭さからは想像できないほどの魚の旨味のエッセンスが料理全体に拡がりタイ料理にはかかせない調味料ひとつです。
また、タイ料理にはマナオと呼ばれるライムもかかせません、スダチに似た大きさで柑橘系のさわやかな酸っぱさは南国の暑さを癒してくれます。
チャーハンにも、焼きそばにも世界3大スープといわれるトムヤムクンにも必ず絞って入れる一品で、特にメコンなどの安いタイウィスキーもソーダーで割り、氷をぶち込みこのマナオをギューギュウー絞っていれると絶品のトロピカルハイボールになり、夜風に吹かれながら何倍でも飲んでしまいます。
タイ料理での要注意は唐辛子、特にねずみのウンコと呼ばれるブリックキーヌという小唐辛子、辛さに慣れない日本人がこれを一粒でも口にしていまうと口中、火を吹いたようにしびれてその後の食事の味が判らなくなってしまうほど、あわてて水を飲んだり、氷で冷やしたりしても効果なしむしろ、もち米などのご飯や、果物を食べたほうが辛さは幾分和らぐ感じがします。
また、この唐辛子、口だけでなく事後 お尻のほうでも火を吹く感覚になる可能性もあるので、その病のある方は特に要注意です。
1年振りに、友人の五色塾主宰者、小川さんと昨年も訪問したチェンマイから南へ70kmランパンの森の中にある 象病院 FAE (Friends of Aisan Elepant )を訪問しました。
この象病院には7年前、タイ、ミャンマー国境で地雷で左前足を負傷したモタラが治療生活を送ってます。
1999年、モタラの手術はタイでは初めての3トンの体重に耐える手術台を作り、30名もの獣医による傷口を30cmの骨と組織を切除する大手術でした。術後も止血処置、感染症からの保護、そして何より当時38歳のモタラの衰弱は激しく余談を許されない状況の日々が続き、その間、このニュースはマスコミを通じタイ国内外に報道され、人間に仕掛けられた地雷の犠牲となり苦しんでいモタラへ世界中の無名の人たちから多くの励ましのメッセージとともに400万バーツ(1200万円)もの義援金が集まりました。
不登校のこどもたちを自宅に寄宿させて不耕農法で農業活動をしている小川さんの五色塾もこどもたちといっしょにお金に<頑張れモタラ>の手紙と絵を添えてを送っていました。
1年振りのモタラはギブスをはずし包帯を巻き、黄色に輝くのゴールデンシャワーの木陰の厩舎で3本足で元気にたって餌を食べていました。
今でも人間からの感染症防止のため、関係者以外は側には近寄れませんでしたが、去年よりは元気になっているような感じがしました。
この病院にはモタラの他に、餌を求めて村の畑の下りてきたときに村人に目を射ぬかれて失明した象や崖から転落して両足を骨折した象5頭ほどが現在入院しています。
その中でまた悲しいことですが、ミャンマー国境での森の伐採作業中の母象に付き添っていて、やはり右前足先を地雷で吹き飛ばされた生後8ヶ月の小象、モーチャが母象といっしょにあらたに入院してきていました
我々が近寄ると小象らしく木の柵越しに体を乗り出して鼻と先の失くなった右前足を摺り寄せてきます。
その愛らしい仕草にひきかえ、これから3本足で生きていかなければならないモーチャの長い一生を思うと、人間のみならず象までも被害を受けている人間のエゴで仕掛けた地雷に対し、嫌悪と悲嘆の情を禁じえず、モーチャの1日も早い退院を願い病院を後にしました。
大宅 一裕
(おおたく かずひろ)
1949年
京都生れ(街頭テレビの力道山の空手チョップに街は熱狂していた)
1968年
神戸六甲学院高校卒業 (裸で便所掃除のスパルタ教育)
1969年
上智大学外国語学部入学(キャンパスにはシュプレヒコールが響き、街には藤圭子の歌が流れていた)
1973年
大手百貨店入社(婦人服部に配属も連日返品作業、催事場での呼び込みの毎日)
1982年
百貨店の海外開店のためファッション担当としてシンガポール出向駐在(~1986年)
(仕入れのため世界各国へ出張し、海外とりわけアジアの魅力にズッポリとはまる)
1987年
百貨店退職後、香港にてGardex Internatinal 設立
香港を基点にヨーロッパ、アジアでのファッションビジネスに携わる
2000年
タイ、チェンマイにて会社設立、旅行業、ファッション、雑貨、食品貿易業のかたわらチェンマイ郊外のプーディン小学校との交流、支援を継続中