
鈴木眞弓さんの<ベルリン旅物語>によれば <カリーブルストを食べながら、ビールを片手に
サッカーの話をすることがベルリーナーの日課>とのこと、そこでミーハーにもこのカリーブルスト
(ソーセージを焼いて秘伝のケチャップにこれまた秘伝のカレー粉をふりかけたベルリン名物
(
2~3ユーロ)を立ち食いでも、フードコートでもカフェででもビール片手に毎日食べ続けました。
(サッカーのことは無知ゆえ語れず)
この高カロリー、高タンパクの食事は体にいいはずがないのですが、ベルリンの空気に
ずっぽりはまった最高に美味なメニューでした。
ベルリン初日ホテルへの帰路偶然に立ち寄って気に入り毎晩通ったのが1930年開業の居酒屋
DICKE WIRTIN(デブの女将)店名のデブ女将はすでに他界してしまっているが息子たちが
母親の遺志を継いでやっていて今も大繁盛。ほとんどが常連のような客もビールを注ぐ
おっちゃんもウェイトレスも皆ベリリンっ子らしく粋でスタイリッシュ、壁の液晶TVでは
いつもブンデスリーグのベルリンチーム戦番組。
ここでも、一つ覚えのカリーブルストと地ビール各種注文、ついにガイド書にある
ウンターデンリンデン通りの高級レストランでのフルコースにも一回も行くことなく
3週間のヨーロッパ最後の夜もベルリン下町の居酒屋の喧噪の中、
相変わらずの定番ベルリンジャンクメニューで更けていきました。
翌朝6時起きベルリンから何と34時間を費やして翌日深夜神奈川県の自宅へたどり着き、
人生の区切りとなった3週間の欧州旅行を終了しました。
旅路の果て初めてのベルリンは感動的かつ魅惑的でした。
ミュンヘンから北上してきて観てきたドイツらしいメルヘンテッィックな中世の町、
ロマンティックな古城の町のイメージからかけはなれた躍動するアート、
音楽あふれる近代都市べルリンでした。
プロシア、ナチファッショ、東西分割、壁崩壊、東西統合、この200年
激動する現代史のはざまでこの都市は大変遷を遂げてきました。
それはあたかも極東の上海、香港、サイゴンの歴史にも似ていて、
ドイツの他のどの町にもないどこか世紀末の虚栄とデカダンスの
香り漂うときめきの都市のようにも思えました。
明治維新後、文明開化の日本は当時世界の最先端の文明国
プロシアから多くの学者、技術者を招請し、
また森鴎外を含む多くの留学生を首都ベルリンへ派遣しました。
舞姫を書いた鴎外の当時住んでいたルイゼン通りの下宿は
今は鴎外記念館として残っていました。
1920代ロンドン、パリとともにヨーロッパ代表するベルリンは
第2次大戦で70%を焼失、1961年からの東西分割、
89年の壁の崩壊後の東西ドイツ統合、首都移転、
そしてこの20年間世界中で上海と並んでもっとも土木、
建設工事が行われ変貌を遂げているエネルギーに満ちた都市でした。
昨年この地を訪問した友人のアドバイスに従い初日は日本語音声ガイド付き
観光バス(20ユーロ)で観光名所ブランデルク門、カイザーウィリヘム教会、
シャルロッテンブルク宮殿、ベルリン大聖堂、国会議事堂、ユダヤ博物館などを巡り、
2日目からは電車(Sバーン、Uバーン)の1日券(6.1ユーロ)を購入して
DEEPにベルリン探訪を行いました。
ハイデルベルク最後の夜は休養、睡眠充分にとり、翌朝は元気一杯で早起きし、
ハイデルク中央駅発7:55amのケルン行き特急ローレライ号に乗車、
列車は昔懐かしコンパーパートメント6人席1室。
他の同室客もなく二人でゆったり独占、列車はマンハイムからライン河沿いを走り、右側通
路の窓越しにライン沿いの町や古城が現れては消えていき、思わず
<なじかわ知らねど♪♪>と口ずさみなくなるようなまさしくローレライの世界
2時間半の乗車後、妻の35年前の留学先ボンで次のベルリン行きまで約2時間の
途中下車、ボン駅地下の大型コインロッカー(4ユーロ)へトランク2個、手荷物2個を預け、
駅裏の妻が下宿していた修道院寮、通った大聖堂、ボン大学、ドイツ料理に飽きて行った
中華食堂、本屋、望郷の思いいだいて眺めに行ったライン河畔などを駆け足で廻り
12:23ボン発のベルリン行きに乗車。
車両は最新のインターシティー特急、空が冬の鉛色に変わりつつある北ドイツの穀倉地帯
を走ること4時間半、首都ベルリンの威信をかけて2年前完成したガラス張りのベルリン中
央駅に到着。
そのまま駅前からタクシーでホテルへ(ドイツのタクシーのほとんどがベンツか
フォルクスワーゲン)
たまたま乗った旧式ベンツのタクシー運転手のベルリン生まれの青年はやけに愛想がいい、
英語で<Welcome to Berlin! ホテルまでは約15分かかります>
<日本のどちらから来られましたか?>
香港、時々チェンマイたまに湯河原&神戸などと本当のこというとややこしくなるので
<TOKYO>と答えておく・・・
<左に見えるのは1943年連合軍に爆撃されたカイザーウィリヘルム記念教会で
戦争のメモリアルとして今も残されています>
とか言って観光案内もやってくれる。
<第2次大戦でベルリンは空襲で70%焼失しました。日本も広島、長崎で原爆被害を受
けましたが東京は空襲を受けましたか?>
<前に見えるのはメルケル首相の所属するCDU(キリスト教民主同盟)本部ビルです。
メルケル首相を知っていますか?>
などと突っ込んだ質問もしてくる。
<ところで日本の首相はだれですか?>
これまた本当のことをいうとややこしくなるので
<FUKUDA>と答えておく。(9月19日現在)
<そうですか・・・知りませんでした>
日本の首相はすぐに突然辞めるので知らなくてもOK、OK・・・
そうこうするうちに車は10分でホテルへ到着、ハンス君自らホテルの中へ入って荷物用の
トローリーを取りに行ってくれるサービスぶり・・
長年の海外生活の経験上このように多弁のタクシー運転手やホテルのボーイ、盛り場の
ぽん引きには要注意なのですが、この運転手君はわずかなチップも受け取らず
<良い旅を!>とさわやかに去って行き、
こちらの疑心を恥じる結果になりました。
ベルリン訪問前に読んだ鈴木真由美さんの<ベルリン旅物語>によれば、ベルリン人は
気むずかし屋が多くベルリンを訪れた人は無愛想なベルリン人に接してドイツ嫌いになる
ことが多いとありましたが僕たちはこの彼のお陰で初日にしてベルリンが大好きになりまし
た。
ドイツの公衆トイレは駅でもドライブインでもほとんどが有料(0.30ユーロ~0.80ユーロ:50円~120円)
おっちゃんかおばちゃんがトイレの入口にいる場合とコインを入れて自動ゲート形式といろいろ。
フッセン手前のドライブインのトイレの前でポケットからコインを取り出そうとごそごそやっていたら
後ろから来たおっちゃんがこれ使えと50セントを差し出してくれました、思わず得意(?)のドイツ語で
<ダンケ!ダンケ!>
また日本のようにいたるところにコンビニや自動販売機があるわけではないのでミネラルウォーター
の購入もひと苦労、これも町の食料品店、スーパー、Bar,観光地の移動車、それぞれ値段が違い、
スーパーで50セント(80円)のペットボトルが観光地では2ユーロ(350円)、ホテルの冷蔵庫では
3.5ユーロ(600円)にまで跳ね上がってしまいますからご用心。
今回の旅でのミネラルウォーターの最安値はフッセンのスーパーマーケットでの1リットルボトル
54セント(85円)。
気温32度のミラノからアルプスを越えたミュンヘンは5度、あわててトランクからキルティング、マフラーを
取り出し冬装備、この寒さの中でも夕食にでかけたカールスプラッツのレストランの屋外ではドイツ人はコ
ートを着てビールを飲んでいました。
翌日、ミュンヘン駅のAVISで事前に予約していレンタカー オペルをピックアップ、
ロマンティック街道を経由し、2泊3日でハイデルベルク乗り捨てで保険フルカバー込、ガソリン代別で
239ユーロ。ガソリン代は90ユーロ(600km)
車にはナビ装備、英語の説明書片手に悪戦苦闘の末、操作完了、まず行先の住所を入力すると距離
数、走行方向のみが画像にでて、その都度、音声(英語)で指示あり、日本のように詳細な道路マップの
表示はないれど簡単明瞭、慣れれば至極簡単便利。ドイツの道路はアウトバーンも含め街道にいたるま
で道路環境は最高、標識も分かりやすく南ドイツの田園地帯を時速120km平均で走行でき、快適その
もの、そしてなによりどこの道路も通行料金無料。
ミュンヘンからロマンティック街道の北端フッセン(泊)ノイシュバインシュタイン城、シュバンガウ、
ランツベルク、アウグスブルク、ネルトリンゲン(泊)、ディンケルスビュール、ローテンブルクを周りながら
600kmのドライブ、街道沿いの町々はすべて中世そのままのメルヘンの世界、まさしくロマンテック街
道。街道の途中、気になる街があればそのまま進路を横道に入り、その町の中心の教会広場へ進行、
そのまま街中をドライブして行くもよし、駐車して探索、休憩、食事してもよし、気楽、気ままな旅ができる
のがレンタカーならではの魅力です。
ところがロマンティック街道を走る車中での我々ぐうたら夫婦の会話は
「今晩の夕食はどうする・・」とか
「そろそろユーロのキャッシュがなくなりかけてる・・どうしよう」とか
「次のトイレ休憩はどこにする・・」とか
ロマンテックとは程遠い超低次元の話題ばかり・・・
それでも何とか無事故、無違反で無事なつかしの大学町ハイデルベルクへ到着し、
早速、目抜きとおりハウプトシュトラーゼの学生ビアホールへくりだし学生たちにまじって乾杯!
フランクフルトより特急列車ICEで南ドイツののどかな田園地帯を走ること3時間
バイエルン州都ミュンヘンに到着。駅前ホテルではインターネットサービスがないため
今後のことも考えネットで無線ラン契約(1か月ー29ユーロ:消費税19%込)
ミュンヘン観光のメッカ、市庁舎の仕掛け時計、本日最後の18時からの演奏を観に、
地下鉄でマリエン広場へ、まだ20分前なのに広場は演奏を待つ人でいっぱい。
やがて18時の時刻を告げる鐘の音とともに人の大きさの仕掛け人形が動き出し、見物客は
歓声をあげ一斉にカメラを上に向け撮影。約10分間で演奏終了。
夕食は1589年創業のビアホール<ホーフブロイハウス>へ・・体育館のような大きさの店は屋内も中
庭もすでに満員、なんとか空いていた席に座りチロル服のウエイトレスに黒ビールとソーセージを注文。
やがて運ばれてきたビールは持ち上げるのもずっしりの1リットルジョッキ、それをウエイトレスたちは
4つも5つもいっしょに運んでくる。
席は木むきだしの長テーブルとベンチ、テーブルクロスもなく一面落書きだらけ、まるで学生食堂
これも400年の歴史?
場内では楽団がドイツのアップテンポの曲を演奏し、客は飲み、食い、歌い、踊り、場内騒然、興奮のる
つぼ。
香港で上品におしとやかに育っている僕のささやくような声はで打ち消されてしまい思わず絶叫状態に、
周りの同席の学生たちといしょに曲に合わせ手拍子、足拍子でハイテンションになり、
すっかりいつもの居酒屋気分の乗りでミュンヘン第一夜は更けていきました。
翌日は市内散策を兼ねて美術館、博物館巡り、ミュンヘンには数多くの世界級の展示施設があり、
普段見る機会の少ないドイツ絵画やドイツの誇るベンツ、BMWなどの歴史的展示物をゆっくり
鑑賞することができました。
地球環境のためか、ガソリン代高騰のせいか自転車競技本場のヨーロッパの街を自転車で行き来する
人が増えてきました。今回訪れたドイツでも通勤着(なかには競技用ヘルメットを冠って)かなりのスピー
ドで飛ばし職場に向かっていました。
車道と歩道の間に自転車道が設けられ、うっかり歩いていると<アハテン! アハテン!(気をつて!)
>と叫ばれてしまします。町のあちこちに駐輪場が設けられ地下鉄や路面電車との乗り換えも便利に配
慮され、町ぐるみで自転車利用を推進しているようです。
日本でも最近、自転車での通勤もふえていると聞いていますが、通勤距離が長く、道路事情も完備され
ていない状況ではヨーロッパ並みになるのはまだまだ時間がかかるでしょうね。


フランクフルトでもミュンヘンでも、地球環境のせいか、ガソリン価格急騰のせいか、自転車に乗った人の
数が急上昇。車道と歩道の間に自転車道が敷かれ、かなりのスピードで自転車が行き来する。
町のそここに駐輪場も設置され、電車や地下鉄への乗り換えも便利に考えられているようです。
うっかり自転車道を歩いていると、後ろから<アハテン! アハテン!>(気をつけて!)と叫ばれる。
オフィス町でもネクタイをしめたビジネスマンやスーツを着たOLが中には自転車用ヘルメットを冠って通勤
ている。地球環境にも健康にもいい自転車は今後益々ヨーロッパでは普及していくでしょうが、日本でも
最近自転車愛好家の数が増えているようですが、通勤距離が電車で1時間以上の遠距離で、道路事情
も完備されてない日本ではヨーロッパ水準に到達するにはまだまだのようですね・・・
8月28日晴れていた空がにわかにかき曇り、ゲリラ豪雨に雷鳴、離陸を危うんでいましたが、無事アジアナ機は雨の中、定刻通りに出発、2時間後ソウルインチョン空港到着、1時間のトランジット待ちでフランクフルトに搭乗出発。
今回ネットで検索した条件がスターアライアンス(マイレージの関係上)で最安のビジネスクラスヨーロッパ便。検索結果はアシアナl航空、(成田ーソウルーフランクフルト 21万+諸経費)、価格の魅力もあってか日本からの利用客も多く、最新のスカイベッド仕様のビジネス席満席。
アシアナのアテンダントは美人ぞろいで、サービスも満点。食事も飲物もいたれりつくせりの10時間フライト、その間食事が3回、フォアグラ状態でフランクフルトの定刻17:00に到着しました。
大宅 一裕
(おおたく かずひろ)
1949年
京都生れ(街頭テレビの力道山の空手チョップに街は熱狂していた)
1968年
神戸六甲学院高校卒業 (裸で便所掃除のスパルタ教育)
1969年
上智大学外国語学部入学(キャンパスにはシュプレヒコールが響き、街には藤圭子の歌が流れていた)
1973年
大手百貨店入社(婦人服部に配属も連日返品作業、催事場での呼び込みの毎日)
1982年
百貨店の海外開店のためファッション担当としてシンガポール出向駐在(~1986年)
(仕入れのため世界各国へ出張し、海外とりわけアジアの魅力にズッポリとはまる)
1987年
百貨店退職後、香港にてGardex Internatinal 設立
香港を基点にヨーロッパ、アジアでのファッションビジネスに携わる
2000年
タイ、チェンマイにて会社設立、旅行業、ファッション、雑貨、食品貿易業のかたわらチェンマイ郊外のプーディン小学校との交流、支援を継続中